2019年3月24日日曜日

2019年3月24日(民数記35~36)

今日の通読箇所:マルコによる福音書5:21~43、民数記35~36、詩編98~99

民数記35~36;
各部族への土地の分配の最後に、レビ人その家族が住むべき町が決められます。彼らはある部分に決まった領地を持つのではなく、全国48の町々に分かれて生活をする。そして、そのうちの6つの町を特に「逃れの町」とします。
この逃れの町は、故意ではなく過失で人を殺してしまったときに、血の復讐をするものからその人を守るために定められた町です。故意に人を殺害すると、律法の定めでは死刑です。しかし過失の場合、彼は逃れの町に逃げることができます。その町にいる間は、被害者の親族などがそこに来て殺害者に復讐をすることは禁じられます。その人は、事件があったときの大祭司が死ぬまでその町にとどまらなければなりません。その期間中に町の外に出て復讐されても、文句は言えない。しかし、大祭司が死ぬと、彼は自分の町に帰ることができる。それが、逃れの町の機能です。
こうしてみると、レビ人の町(所有地)は、他の部族の所有地とは意味が違っています。レビ人の町は自分たちのための取り分であるというよりも、イスラエル全体を血の復讐から守り、何よりも神様に目を向けさせるためのシンボルのような存在であるのだと思います。レビ人が住む逃れの町は、この世界で「犯罪者」と呼ばれる人が、なお生きられる場所であることが求められているのです。
教会は、どうなのでしょう。例えば最近、薬物に関する事件がありました。私たちの教会には、彼のための場所はあるでしょうか?社会の中でうまく生きられない人は、私たちの教会に場所を持っているのでしょうか?私たちの教会は逃れの町なのか。主イエス・キリストに、そう問われているのではないでしょうか。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...