今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙11:1~22、民数記12~13、詩編84
民数記12~13;
神様がイスラエルの人々に与えようとしているカナンへ、それぞれの部族の代表者に偵察に行かせました。それがどのような土地なのかを調べさせたのです。帰ってきた者たちは、その土地の実りであるぶどうを担いで帰ってきました。彼らは言います。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行ってきました。そこはまことに父と蜜の流れる地でした。これがそこの果実です(13:27)」。
この「乳と蜜の流れる地」という表現は、出エジプト記3:8にも登場していました。主なる神様がモーセに初めて語りかけてくださったときのことです。「私は下って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、・・・、の住むところに導き上る」と約束してくださったのです。神様が約束してくださった地の素晴らしさを言い表す表現ですから、偵察隊は、まさに神様が約束してくださった場所はこんなにもすばらしかったと報告した、ということになります。
ところが、民数記では、話はそこで終わりません。28節です。「しかしながら、その地に住む民は強く、町は城壁に囲まれ、とても大きいのです。」ところが偵察隊の一人であるカレブは断固として訴えます。「私たちはぜひとも上って行くべきです。そこを手に入れましょう。私たちは必ずできます(30節)」。だが、他の者たちは「いや、あの民に向かって上ることなどできません。彼らは私たちよりも強いからです(31節)」。
神様が約束してくださった救いの素晴らしさをどんなに知ったとしても、敵の強さや自分の弱さを言い訳にして、「だから」と言っていては、その神様の約束を逃してしまいます。カレブは、神の約束だけを信じました。だから、「私たちには必ずできます」と大胆にも信じ得たのです。自分や環境を言い訳にすると、不満も生まれます。第12章のミリアムやアロンの不満も、自分のへそばかり見ているから生まれる妬みなのかもしれません。私たちの目は、何に注がれているのでしょうか。主なる神様とその約束の素晴らしさなのか、それとも、環境や自分自身ばかり見つめたところでつぶやく言い訳なのか。
主の御前で、キリストを思い巡らして、新しい一日を始めたいと願います。
民数記12~13;
神様がイスラエルの人々に与えようとしているカナンへ、それぞれの部族の代表者に偵察に行かせました。それがどのような土地なのかを調べさせたのです。帰ってきた者たちは、その土地の実りであるぶどうを担いで帰ってきました。彼らは言います。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行ってきました。そこはまことに父と蜜の流れる地でした。これがそこの果実です(13:27)」。
この「乳と蜜の流れる地」という表現は、出エジプト記3:8にも登場していました。主なる神様がモーセに初めて語りかけてくださったときのことです。「私は下って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、・・・、の住むところに導き上る」と約束してくださったのです。神様が約束してくださった地の素晴らしさを言い表す表現ですから、偵察隊は、まさに神様が約束してくださった場所はこんなにもすばらしかったと報告した、ということになります。
ところが、民数記では、話はそこで終わりません。28節です。「しかしながら、その地に住む民は強く、町は城壁に囲まれ、とても大きいのです。」ところが偵察隊の一人であるカレブは断固として訴えます。「私たちはぜひとも上って行くべきです。そこを手に入れましょう。私たちは必ずできます(30節)」。だが、他の者たちは「いや、あの民に向かって上ることなどできません。彼らは私たちよりも強いからです(31節)」。
神様が約束してくださった救いの素晴らしさをどんなに知ったとしても、敵の強さや自分の弱さを言い訳にして、「だから」と言っていては、その神様の約束を逃してしまいます。カレブは、神の約束だけを信じました。だから、「私たちには必ずできます」と大胆にも信じ得たのです。自分や環境を言い訳にすると、不満も生まれます。第12章のミリアムやアロンの不満も、自分のへそばかり見ているから生まれる妬みなのかもしれません。私たちの目は、何に注がれているのでしょうか。主なる神様とその約束の素晴らしさなのか、それとも、環境や自分自身ばかり見つめたところでつぶやく言い訳なのか。
主の御前で、キリストを思い巡らして、新しい一日を始めたいと願います。