今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙11:23~40、民数記14~15、詩編85
民数記14~15;
イスラエルの全会衆は、カナンの地へ偵察に行った者たちが流した悪い情報を聞いて動揺し、嘆き、不平を言いました。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。この荒れ野で死んでいたらよかったのに。どうして、主は私たちをこの地に連れて来て、剣に倒れさせようとするのだろうか(14:2~3)」。そして互いに言い合います、「さあ、頭を立てて、エジプトへ帰ろう(4)」と。
そうやって不満を爆発させる大衆を前に、ただ、カレブとヨシュアだけが言うのです。「私たちが偵察に行き巡った土地は、実に良い地でした。もし、私たちが主の御心に適うなら、主は私たちをあの地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる地を私たちに与えてくださるでしょう(7~8節)」と。
奴隷の家であるエジプトから救われて、自由にされました。大いなる神様の御業によって、今ここに生きています。そして、神様はこれから乳と蜜の流れるすばらしい場所へ導いてくださいます。しかし、そんな神様の御業も、愛も、約束も、全部忘れて、目の前の困難でいっぱいになってしまい、不平不満と後悔に生きる。それは、神様を信じず、侮ることでした。この不信仰は、神様の大きな怒りを買います。当初は荒れ野でこの者たちを滅ぼそうとまで言われましたが、モーセの執りなしによってそれを思いとどまり、40年間荒れ野をさまようことになってしまいました。先に人口調査された成人たちは誰一人カナンに入れないと言われてしまいました。ここから、イスラエルの荒れ野の40年が始まった。それは、人々の罪が招き寄せた当然の結果だったのです。
しかも、事はそれで終わらなかった。神様の怒りを買ったと悟った大衆は後悔し、「さあ、主が約束された所へ上って行こう。私たちは罪を犯したのだから(39節)」と言い合います。ところがこれもまた神様の御心に適うことではなかった。モーセは言います。「あなたたちはどうして主の言うことに背くのか。そんなことはうまくいくはずはない。上って行ってはいけない(41~42節)」。何が間違っていたのか。彼らは、結局、神様が今何を言っておられるのかに心を傾けなかったのです。自分の経験や後悔、自分なりの状況判断、いいわけ、そういうものが何よりも力を持っていたのです。大切なことは、今、神様が何をおっしゃっているのか、ということなのです。
今日、神様はあなたに何を告げておられますか?今日は第15章に触れられませんでしたが、ここはそのヒントになるかもしれません。例えばこの章で繰り返されているのは、「あなたがたも寄留者も、主の前には同じである(15:15)」というような事柄です。このような神の言葉をどう受け止め、従っていくのか。これも一つのメッセージでしょう。
今日、主は、私たちに今日の御言葉を語りかけておられます。
民数記14~15;
イスラエルの全会衆は、カナンの地へ偵察に行った者たちが流した悪い情報を聞いて動揺し、嘆き、不平を言いました。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。この荒れ野で死んでいたらよかったのに。どうして、主は私たちをこの地に連れて来て、剣に倒れさせようとするのだろうか(14:2~3)」。そして互いに言い合います、「さあ、頭を立てて、エジプトへ帰ろう(4)」と。
そうやって不満を爆発させる大衆を前に、ただ、カレブとヨシュアだけが言うのです。「私たちが偵察に行き巡った土地は、実に良い地でした。もし、私たちが主の御心に適うなら、主は私たちをあの地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる地を私たちに与えてくださるでしょう(7~8節)」と。
奴隷の家であるエジプトから救われて、自由にされました。大いなる神様の御業によって、今ここに生きています。そして、神様はこれから乳と蜜の流れるすばらしい場所へ導いてくださいます。しかし、そんな神様の御業も、愛も、約束も、全部忘れて、目の前の困難でいっぱいになってしまい、不平不満と後悔に生きる。それは、神様を信じず、侮ることでした。この不信仰は、神様の大きな怒りを買います。当初は荒れ野でこの者たちを滅ぼそうとまで言われましたが、モーセの執りなしによってそれを思いとどまり、40年間荒れ野をさまようことになってしまいました。先に人口調査された成人たちは誰一人カナンに入れないと言われてしまいました。ここから、イスラエルの荒れ野の40年が始まった。それは、人々の罪が招き寄せた当然の結果だったのです。
しかも、事はそれで終わらなかった。神様の怒りを買ったと悟った大衆は後悔し、「さあ、主が約束された所へ上って行こう。私たちは罪を犯したのだから(39節)」と言い合います。ところがこれもまた神様の御心に適うことではなかった。モーセは言います。「あなたたちはどうして主の言うことに背くのか。そんなことはうまくいくはずはない。上って行ってはいけない(41~42節)」。何が間違っていたのか。彼らは、結局、神様が今何を言っておられるのかに心を傾けなかったのです。自分の経験や後悔、自分なりの状況判断、いいわけ、そういうものが何よりも力を持っていたのです。大切なことは、今、神様が何をおっしゃっているのか、ということなのです。
今日、神様はあなたに何を告げておられますか?今日は第15章に触れられませんでしたが、ここはそのヒントになるかもしれません。例えばこの章で繰り返されているのは、「あなたがたも寄留者も、主の前には同じである(15:15)」というような事柄です。このような神の言葉をどう受け止め、従っていくのか。これも一つのメッセージでしょう。
今日、主は、私たちに今日の御言葉を語りかけておられます。