今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:15~25、ヨシュア記4~5、詩編119:97~112
ヨシュア記4~5;
「彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中で祭司たちが足を止めてたっていた場所から十二の石を取り、それを持って来て、今夜あなたがたが夜を過ごす場所に据えなさい(4:3)」。何のために、そのようなことをするのか。「将来、子どもたちが、『これらの石は何ですか』と尋ねたなら、こう答えなさい。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。これらの石は、とこしえにイスラエルの人々の記念となる』(7節)」。主がしてくださった大いなる御業の記念として、この石を立てておけということのようです。
これは、私たちにも大事な示唆を与えてくれる出来事だと思います。私たちは今何かの建築物を主の御業の記念とはしません。私たちの何よりの記念は、聖餐です。「私の記念としてこのように行いなさい(一コリント11:24)」。聖餐を祝うたびに、私たちはキリストを記念し、その体と地を味わいます。信仰は、ある意味では、記念することです。思い出すことです。何を?神がしてくださったすばらしい御業を。主イエス・キリストの十字架と復活を思い出し、これを記念して心に刻む。そうやって、新しくそれを味わい続ける。それが信仰の営みです。
神の御業を記念しつつ、この足の裏で新しい地を踏みしめるとき、私たちは過去だけではなく将来に待つ神の御業を目撃することになります。ヨシュアがエリコにいたとき、抜き身の剣を手にした人がいるのを見ました。その人は主の軍勢の長であると言います。彼はヨシュアに言いました。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である(5:15)」。これから私が進んでいこうとする場所は、もうすでに神のものであり、神の聖なる場所。今日、私たちが進んでいく所もまた神の聖なる土地です。永遠に記念すべき神の聖なる御業は、今日、私たちが進む先でも行われています。
2025年9月19日の聖句
ユダの家に残り、難を逃れた者は再び根を下ろし、上に実をつける。(列王記下19:30) (イエスの言葉)私につながっていなさい。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ15...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...