2019年5月18日土曜日

2019年5月18日(サムエル記上1〜2)

今日の通読箇所:ルカによる福音書17、サムエル記上1~2、詩編147

サムエル記上1~2;
二組の親子が登場しました。一組目は、母ハンナと息子のサムエルです。ハンナには子どもがいませんでした。それは彼女にとって大きな悲しみで、夫の慰めも彼女の苦しみを癒やすことはありませんでしたした。彼女はこのことのために祈りました。「万軍の主よ、どうかあなたの仕え女の苦しみをご覧ください。この仕え女を心に留めてお忘れにならず、男の子を賜りますならば、その子を一生主にお献げし、その頭にはかみそりを当てません」(1:11)。主なる神様は彼女の祈りを聞き届け、一人の男の子を与えてくださいました。その子はサムエルと名付けられ、ハンナは約束のとおり、乳離れした息子を祭司エリに預けたのです。
もう一組の親子は、その祭司エリと彼の二人の息子ホフニとピネハスです。息子らはならず者でした。父を継いで祭司でしたが、礼拝者のささげ物をかすめ取り、会見の幕屋の入り口で仕える女と寝ていました。神を信じているとは到底考えられない所業を重ねていた。彼らにとっての祭司職は、単に自分たちの欲望を満たすための手段でした。父であるエリの諭しの声に、息子たちは耳を傾けることがありませんでした。神様はエリに言われます。「なぜ、あなたは私よりも自分の息子を重んじ、私の民イスラエルの献げ物から最上のものを奪って、私腹を肥やそうとするのか」(2:29)。
ハンナは、息子を主に献げました。それに対しエリは息子の言いなりでした。その違いは、ハンナが息子を神に与えられたものとして謙虚に受け止めていたことであると思います。エリにはそういう感覚が見られないのではないでしょうか。
私たちの人間関係でも、同じことが問われているのではないかと思います。私たちの子どもも、親も、神に与えらえたものです。私たちの友人も、隣人も、神に与えられたものです。そう受け止めなおすことこそ、私たちの人間関係を神に献げること第一歩なのです。

2025年9月9日の聖句

主はあなたがたをご自分の民とされることを喜びとされた。(サムエル上12:22) (使徒たちは神をあがめて)「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言った。(使徒11:18) 使徒たちは全員ユダヤ人ですので、異邦人が主なる神さまを信じたことが本当に大きな驚きでした...