2019年5月2日木曜日

2019年5月2日(ヨシュア記20〜21)

今日の通読箇所:ルカによる福音書8:22~39、ヨシュア記20~21、詩編128~129

ヨシュア記20~21;
土地の分配が、いよいよ最後になりました。レビ族に土地が与えられます。他の部族とは違う与えられた方です。レビ族は神様に仕えることを使命として託されましたので、他の部族のような領地は持ちません。その代わりに全国に散らばっていくつかの町とその周囲の放牧地を与えられ、そこに住むのです。各部族はくじで決められたいくつかの町を提供しました。他の諸部族のように農業をするのではなく、神に仕えることが仕事です。彼らは神へのささげ物の一部をもらうことで生活したのです。
そんなレビ人の町のうちの六つは、逃れの町と呼ばれる特別な町に定められました。故意ではなく過って人を殺してしまった者が血の復讐を逃れるための場所です。その町の中にいる限り、復讐は禁じられているのです。そしてその時の大祭司が死ぬと、恩赦を受けることができる、というものです。
レビ族という存在がイスラエルの中にいることで、自分たちは一体何者なのかを知ったのではないかと思います。ただただ神に仕えることを使命とする者が、全国各地の自分たちの身近にいるのです。しかも、レビの町の中のレビの町とも言える逃れの町の存在は、自分たちの処罰感情や怒り、復讐してやらないと決して済まないという強い憎しみに「待った」をかけます。感情としては赦せないけれど、それでも神様が赦しを求めておられることを、逃れの町があることで身をもって知るのです。
主イエスは、私たちに祈りを教えてくださいました。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と私たちも祈ります。自分がされたことをじっと見つめているときには、自分に過ちをして人を赦すことはなかなかできません。ただ、自分も神様にたたただ赦して頂いただけだと知るときにだけ、私たちにも人を赦すことができるのではないでしょうか。私たちの生きているこの世界には、十字架が立っているのです。逃れの町があったように。十字架が立っていて、私たちはただそこに逃れることができる。神の憐れみの下にしか、罪深い私たちが生きうる場所はないのです。

2024年12月21日の聖句

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