教会との最初の出会いのときの気持ちは、人それぞれ、様々だと思います。何となく良いイメージを持っている人、西洋の宗教だと毛嫌いしている人、肯定的にも否定的にも、いろいろな感覚があることでしょう。サウロという人は、激しく憎んでいました。教会も、そこで信じ崇めているイエスも。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで…」。少し前に、ステファノという人が迫害され殺されました。人びとは彼を激しく罵り、怒りにまかせて石打ちにしました。その時、サウロは石を投げる人たちの上着の番をしていたのです。サウロにしてみれば自分は正しいという確信があったに違いありません。自分には物事がよく見えていると思っていたのです。
意気込んでダマスコに町に向かうサウロ。イエスを信じ、その道に従う者たちを縛り上げようと、彼の鼻息は荒かった。ところが彼がダマスコに近づいたとき、突然天からの光が彼を照らしました。サウロは倒れ、自分を呼ぶ声を聞きます。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。」一体誰の声なのか、彼には分からない。「あなたはどなたなのですか。」すると、声は答えます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」こうして、サウロはイエスと出会いました。私は、この話が大好きです。サウロは、イエスのことを探しても、求めてもいませんでした。激しく憎んでいました。別に人生が空しいわけでもありません。特にイエスを信じるべき理由なんてありませんでした。でも、イエスの方から彼に近づき、彼と出会ったのです。サウルはイエスを憎んでいました。しかし、イエスはどうでしょう?「なぜ私を迫害するのか」と言っています。しかし、例えば「よくもステファノを殺してくれたな」とか、あるいは「かつてわたし自身が十字架につけられたときのことは恨んでいるからな」とは言いません。恨み辛みで彼を責めようとしない。しかも、「サウル、サウル」と、彼の名前を呼んでいます。一人の人間として、彼を認めている。そして、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言って、イエスも名乗り、サウロが自分にこれまでどう関わってきたのかを明らかにします。でも、それ以上責めないのです。イエスにとって、サウルという人物の価値は、多分ゼロだったと思います。いや、自分を迫害しているということからしたら、マイナスです。プラスの要素は一つもない。けれどもイエスはそんなサウロと人格対人格として、出会おうとするのです。
サウロのために、イエスはアナニアというひとりのキリスト者を準備していました。アナニアはサウロが迫害者であることを知っていたので最初は躊躇しましたが、それでもイエスに遣わされてサウロのところへ行き、彼の頭に手を置いて彼のために祈りました。すると、サウロの目から鱗のようなものが落ちた。サウロはダマスコへの道で光の中におられるイエスと出会って以来、目が見えなくなっていた。しかし、アナニアの祈りでまた見えるようになった。よく自分は見えていると思い込んで憎しみに駆られていた男は、イエスという、マイナスの自分を受け入れてくれる方と出会って実は見えていなかったことを知り、イエスを通して新しい仲間と出会って、彼が自分のために祈ってくれたことで、本当に見えるようになったのです。こうして、イエスがサウロと出会ったのです。