2019年7月28日日曜日

コリントの信徒への手紙一第14章26から40節「すべてはあなたがたを造り上げるために」


 集まって、詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈する。ここには、生まれたばかりのキリスト教会の礼拝、コリントの町で献げていた礼拝の様子が記録されています。私たちと違うところもたくさんあるでしょう。しかし、同じ事もたくさんあります。賛美を歌います。聖書の御言葉に聞きます。お祈りをします。あるいは、この章には出てきませんが、第11章によれば、聖餐を祝っていました。そういう礼拝のすべての営みについて、パウロは「すべてはあなたがたを造り上げるためにするべきです」と言っています。あなたたち一人ひとりを高めるためにとか、それぞれの信仰の確信が深められるために、とは言いませんでした。あなたがたを造り上げる。一つのキリストの体、教会として、「あなたがたが」造り上げられるように。礼拝は、教会の中にいる強い人が自分自身の成長や精神的安寧のためにする営みではありません。自分自身のためという面もあります。しかし、それ以上に、隣人のための営みです。今日、隣に座って礼拝を献げている人のために、私たちは今共に礼拝している。あなたがここにいて礼拝していることは、あなた自身のためだけではなく、隣人を立て上げるためになくてはならないのです。
 この手紙では、ずいぶんと「預言」の話が続いていました。ここでは「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」と言っています。先週の所で、語られた聖書の御言葉や説教、あるいは礼拝それ自体が語り出す福音の言葉に「アーメン」と答え、その福音に生きるとき、教会は預言者共同体として語り出している、ということを申しました。教会は共にキリストの福音を預言する群れです。31節ではそのことが「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」と言われています。励まされるという言葉は、「慰め」とも言える言葉です。傍らにいて語りかける、という字です。すぐ側にいて互いに福音を語り合い、励まし、慰める共同体。それが、互いを造り上げるということではないでしょうか。
 自分勝手に誰も解釈できないのに異言したり、お互いの言葉に耳を傾けずに何人も一篇に預言をしたり。そうやって愛を欠いたとき、私たちの言葉は騒がしいどら、やかましいシンバルです。愛をもって語り、愛をもって耳を傾ける、ということが大切なのだと思います。そして、そのような愛の根拠が、「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」という御言葉であるのだと思います。この無秩序という言葉には、暴動という意味もあります。恐らく、コリント教会分派争いを意識しての言葉使いなのでしょう。他でもない、礼拝や信仰で人間同士の争いが深まり、対立が表面化することがあります。自分の正しさや正当性を証明するための祈りや説教や信仰は、病気のような「ファリサイ根性」なのかもしれません。しかし、神は平和の神なのです。平和というのは、独りぼっちでは得ることができません。平和は関係の中でのことです。キリストの平和といったとき、それは、私たちと和解するために十字架にまで進まれたキリストの平和のことです。キリストは私たちとの平和のために、積極的に手を伸ばしてくださいました。隣人である私たちのための存在になってくださいました。それは私たちをも隣人ための平和の言葉の使者にするためなのです。

2024年2月24日の聖句

私はあなたがたに以前にもまさる幸いをもたらす。こうしてあなたがたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル36:11) (パウロの手紙)あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。(ローマ15:29) ありがたい言葉です。「私...