「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」とパウロは言っています。この言葉を読んで、あるローマ・カトリック教会の神父の言葉を思い出しました。神父たちは結婚しません。当然子どももいない。そのことで教会の信徒からさみしくないですかという趣旨のことを言われたようです。それに対して彼は、この世のことだけでキリストに望みをかけているなら確かにその通りだが、自分はこの世のいのちを超えた希望をキリストに抱いているからそのようなことはないと答えたそうです。私自身一人のキリスト者として、とても考えさせられる言葉です。私たちはこの世の命のことだけでキリストに望みをかけているのではありません。今のことしか見えなくなると、とても辛くなります。小さな事に一喜一憂し、何事かが起こる度にむなしくなってしまいます。しかし私たちはこの命を超えた希望を持っています。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」初穂は最初の実りですから、当然次の実りがあります。この次の実りは私たちのことです。私たちも、キリストと同じようにやがてこの肉体をもって復活する。命の実りとなるのです。ですから私たちは死んだら終わりだという「信仰」には生きていないのです。
そこで私が関心を持ったのが、23節で「順序」という言葉が使われていることです。この言葉は物事の順番という意味の他に地位という意味も持っているそうです。等級や階級など、普通は兵士の単位として使われる言葉だそうです。軍隊の秩序を表す。軍隊はある目的のために整えられた秩序を持ちます。この当時で言えば、ローマ帝国が領土を拡大するといったところでしょうか。23から26節にはキリストによって与えられる復活の命の順序が書かれています。キリストがすべてを支配し、最後の敵として死が滅ぼされると言います。キリストが死にも打ち勝って、これを占領して滅ぼしてしまわれる。今はまだそうなってはいません。しかし、今将に来たらんとしていることです。実際にキリストが復活して命の初穂となられたからです。
この命の福音は、私たちの個人的な慰めとして訪れるのではありません。キリストは死に支配されない「国」をお造りになります。壮大なスケールの話です。キリストは神の国、天の国をお建てになるのです。私たちの今生きる現実はまだその手前を進んでいる。だからキリストに支配されるべきすべての支配、すべての権威、勢力が我が物顔で君臨しています。私たちの社会には裁きの言葉が飛び交い、憎しみが国を覆っています。隣人を裁いて止まない私たちの小さな権威はキリストに支配して頂かなければ救われることがないのです。
キリストは御自分が支配する国を打ち立てるためにこの世界に戦いを挑んでおられます。この戦いは私たちを抑圧するものではありません。キリストは父なる神への徹底的な従順、十字架の死にまでいたる従順によって私たちを神の支配の中に入れてくださいました。私たちはキリストの戦いの実りです。このキリストが命の初穂として復活したからには、私たちもキリストの結んでくださった実りとしてやがて復活することになるのは、今や当然なのです。