今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一7:25~40、歴代誌下25~26、コヘレトの言葉3
歴代誌下25~26;
ユダのアマツヤ王。「彼は主の目に適う正しいことを行ったが、誠実な心でそうしたわけではなかった(25:2)」。それでも彼は自分の父を殺害した家臣を殺しましたが、その子どもたちは殺しませんでした。律法の書が命じていることに従ったからです。あるいは金で雇ったイスラエルの勇士について、神の人が「王様、イスラエルの軍を同行してはなりません。・・・あなた自身が力強く戦いに臨みなさい(25:7~8)」と言った言葉にも従い、勇気を奮い起こして戦いました。しかし、一番肝心な所で過ちを犯しました。「アマツヤはエドム人の討伐から帰った後、セイル人の神々を持ち込み、これを自分の神として立て、その前にひれ伏して香をたいた(14節)」。預言者がアマツヤ王に言います。「なぜあなたはこの民の神々を求めるのか。あなたの手から自分の民を救い出すこともできなかったのに(15節)」。アマツヤはその言葉に怒りました。
次の王はアマツヤの息子であるウジヤ。彼は最初は良かったのですが、神を畏れることを教えた指導役の人物、ゼカルヤが死んだ後はその道から離れてしまいました。「彼は強くなると、心が驕り高ぶり、身を滅ぼすことになった。彼は自分の神、主に背き、主の聖所に入り、香をたく祭壇の上で香をたこうとした(26:16)」。ウジヤは自分をいさめるs祭司の声に耳を傾けようとはしませんでした。
アマツヤもウジヤも、誠実な心でなかったとは言え、最初は神に従っていました。しかし次第に力をつけると傲慢になった。そして、周囲の預言者や祭司の忠告に耳を傾けなくなりました。神の言葉は、私たちにとって耳障りなことがあります。そのようなときにこれを捨てるのか、それとも耳を傾けてなおその言葉に聞くのか。今の私たちの社会は、悔い改めに気づかせる言葉を総力を挙げて排除しているように思います。それはアマツヤやウジヤに見られた傲慢です。私たちは傲慢の罪の虜になっていないか。悔い改めは、神の前での解放なのです。