今日の通読箇所:コロサイの信徒への手紙1、イザヤ書25~26
イザヤ書25~26;
「主はこの山で、すべての民の顔を覆うベールと、すべての国民にかぶせられている覆いを破り、死を永遠に呑み込んでくださる。主なる神はすべての顔から涙を拭い、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた(25:7~8)」。
ここで「すべての民の顔を覆うベール」と言っているのは、何のことでしょうか?すべての国民に覆いがかぶせられている、と言っています。顔をベールが覆っていれば、顔と顔とを直接合わせる妨げになります。ベールをかぶっている人の素顔がどういうものなのか、周りの者には分かりません。逆にベールの中からも、恐らく見にくいのだろうと思います。このベール、顔の覆いは、ここでは、死という隔ての象徴であるように思います。死が壁のように立ちはだかって、私たちは神様の救いをしっかりと見ることができない。死が、私たちと神様との間を邪魔している。
しかし、主は「この山」で、そのベールを破ってくださる、と言います。「この山」というのは、富士山とか丹沢とか、そういう具体的などこかの山ではなく、象徴的な意味であろうと思います。思えば、モーセはシナイ山で神と顔と顔とを合わせて語りました。同じように、神様が私たちとも顔と顔とを合わせて親しく出会ってくださる時が来る、と約束します。その時には、死は滅ぼされる。私たちの目からは涙が拭い去られる。私たちは死から救われる。その時が必ず来る。聖書は、私たちにそう約束します。「あなたの死者は生き返り、私の屍は立ち上がります。塵の中に住む者よ、目覚めよ、喜び歌え。あなたの露は光の露、地は死者の霊に命を与えます(26:19)」。神が、私たちを、死者の中から起こしてくださる救いの時が必ず来る。預言者はそう宣言しています。
使徒パウロは言いました。「実際、今日に至るまでモーセの書が朗読されるときは、いつでも彼らの心には覆いがかかっています。しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります(コロサイ3:15~17)」。私たちに命を得させるために、神の霊が私たちのベールを破り、神ご自身が私たちに顔を合わせて出会ってくださる。それは、死を越えた私たちの望みです。
イザヤ書25~26;
「主はこの山で、すべての民の顔を覆うベールと、すべての国民にかぶせられている覆いを破り、死を永遠に呑み込んでくださる。主なる神はすべての顔から涙を拭い、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた(25:7~8)」。
ここで「すべての民の顔を覆うベール」と言っているのは、何のことでしょうか?すべての国民に覆いがかぶせられている、と言っています。顔をベールが覆っていれば、顔と顔とを直接合わせる妨げになります。ベールをかぶっている人の素顔がどういうものなのか、周りの者には分かりません。逆にベールの中からも、恐らく見にくいのだろうと思います。このベール、顔の覆いは、ここでは、死という隔ての象徴であるように思います。死が壁のように立ちはだかって、私たちは神様の救いをしっかりと見ることができない。死が、私たちと神様との間を邪魔している。
しかし、主は「この山」で、そのベールを破ってくださる、と言います。「この山」というのは、富士山とか丹沢とか、そういう具体的などこかの山ではなく、象徴的な意味であろうと思います。思えば、モーセはシナイ山で神と顔と顔とを合わせて語りました。同じように、神様が私たちとも顔と顔とを合わせて親しく出会ってくださる時が来る、と約束します。その時には、死は滅ぼされる。私たちの目からは涙が拭い去られる。私たちは死から救われる。その時が必ず来る。聖書は、私たちにそう約束します。「あなたの死者は生き返り、私の屍は立ち上がります。塵の中に住む者よ、目覚めよ、喜び歌え。あなたの露は光の露、地は死者の霊に命を与えます(26:19)」。神が、私たちを、死者の中から起こしてくださる救いの時が必ず来る。預言者はそう宣言しています。
使徒パウロは言いました。「実際、今日に至るまでモーセの書が朗読されるときは、いつでも彼らの心には覆いがかかっています。しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります(コロサイ3:15~17)」。私たちに命を得させるために、神の霊が私たちのベールを破り、神ご自身が私たちに顔を合わせて出会ってくださる。それは、死を越えた私たちの望みです。