今日の通読箇所:コロサイの信徒への手紙4、イザヤ書31~32
イザヤ書31~32;
「災いあれ、助けを求めてエジプトに下り、馬を頼みとする者に。彼らは戦車の数が多く、騎兵が強力であることに頼り、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めようともしない(31:1)」。
このときのイスラエルの人々は、エジプトだけを頼りにしていたのではないと思います。恐らく、主を信じ、そしてエジプトも信じたのでしょう。主なる神様も信じるが、強固な軍事同盟も信じる。そういうことだったのではないでしょうか。
私たちにも、同じようなことがあるかもしれません。主なる神様は信じてるが、他にも頼りにしているものがある。もちろん神様は信じているが、「あれ」は「あれ」として信じている。そういう「あれ」が、私たちにはないでしょうか。
しかし、こういうときの私たちの心で何が起こっているのかをよく考えてみると、じつは、神も信じるが他のものも信じるというのは、神だけでは足りないから他のものも信じるということであり、それはつまり、本当は神を信じていないということに他なりません。
私たちは、二人の主人に同時に仕えることはできません。一方を信じて他方を拒むか、一方を拒んで他方を信じるか、どちらかしかない。私たちの主人は、一体誰なのでしょうか?
「主は私にこう言われた。獅子や若獅子が獲物に向かってほえるとき、多くの羊飼いがそのために呼び集められても、獅子は彼らの声におののかず、その騒ぎにひるまない。これと同じように、万軍の主は、シオンの山とその丘の上で戦うために、降りてこられる。空を飛び回る鳥のように、万軍の主はエルサレムを守られる。これを守り、救い、助け、解放する(31:4~5)」。
私たちの主なる神様は、頼りがいのある方です。この方がおられれば他の頼みは必要ありません。この方がおられれば、私たちは確かです。だから、この神様は、信じて間違いのない方です。
イザヤ書31~32;
「災いあれ、助けを求めてエジプトに下り、馬を頼みとする者に。彼らは戦車の数が多く、騎兵が強力であることに頼り、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めようともしない(31:1)」。
このときのイスラエルの人々は、エジプトだけを頼りにしていたのではないと思います。恐らく、主を信じ、そしてエジプトも信じたのでしょう。主なる神様も信じるが、強固な軍事同盟も信じる。そういうことだったのではないでしょうか。
私たちにも、同じようなことがあるかもしれません。主なる神様は信じてるが、他にも頼りにしているものがある。もちろん神様は信じているが、「あれ」は「あれ」として信じている。そういう「あれ」が、私たちにはないでしょうか。
しかし、こういうときの私たちの心で何が起こっているのかをよく考えてみると、じつは、神も信じるが他のものも信じるというのは、神だけでは足りないから他のものも信じるということであり、それはつまり、本当は神を信じていないということに他なりません。
私たちは、二人の主人に同時に仕えることはできません。一方を信じて他方を拒むか、一方を拒んで他方を信じるか、どちらかしかない。私たちの主人は、一体誰なのでしょうか?
「主は私にこう言われた。獅子や若獅子が獲物に向かってほえるとき、多くの羊飼いがそのために呼び集められても、獅子は彼らの声におののかず、その騒ぎにひるまない。これと同じように、万軍の主は、シオンの山とその丘の上で戦うために、降りてこられる。空を飛び回る鳥のように、万軍の主はエルサレムを守られる。これを守り、救い、助け、解放する(31:4~5)」。
私たちの主なる神様は、頼りがいのある方です。この方がおられれば他の頼みは必要ありません。この方がおられれば、私たちは確かです。だから、この神様は、信じて間違いのない方です。