今日の通読箇所:テサロニケの信徒への手紙二1~2、イザヤ書43~44
イザヤ書43~44;
見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を、荒れ地に川を置く。(43:19)
神様は、新しいことを始めようとしておられます。それは、荒れ野に道を敷き、荒れ地に川を流れさせるという、私たち人間の力ではどうしようもないところでの救いの御業です。「あなたがたはそれを知らないのか」と神様は言われますが、私たちが知って参与することを神様は待っておられるのではないでしょうか。
しかし、と言われます。「しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。あなたは焼き尽くすいけにえの羊を、私のもとに引いてくることもなく、あなたのいけにえで私を崇めることもなかった。私は穀物の供え物の重荷を負わせたことも、乳香であなたを疲れさせることもしなかった。・・・。かえって、あなたの罪で私に労苦させ、あなたの過ちで私を疲れさせた。私、この私は、私自身のために、あなたの背きの罪を消し去り、あなたの罪を思い起こすことはしない(23~25抜粋)」。神様に期待することも神様を信じることもなく、神様に祈らないことが、却って神を疲れさせるのだ、と言います。神様を信じ、期待して「救ってください」と祈ることをこそ、神様は待っておられるのです。結局、神様をなめているから本気で祈ろうとしないということです。「彼は杉を切り松や樫の木を選んで林の木々の中で育てる。また、月桂樹を植え、雨がそれを成長させる。それは自分の薪となる。人はそれを取って暖まり燃やしてパンを焼く。・・・。そして、その残りを神に造り上げ、その前にひれ伏して拝み、祈って言う。『救ってください。あなたは私の神だから』と(44:14,15,17)」。神をなめているというのは、神を拝んでいるようでありながら実は自分で自分の都合のいい「神らしき何か」をこしらえているに過ぎないからだ、と指摘しています。自分の都合に合わせて造りあげた神などに私を救う力などないのです。
本当の神様、この世界をお造りになった方は、私たちの思いを越えた救いの道を拓かれます。例え荒れ野であっても道を敷き、荒れ地にも川を流れさせるのです。そのようなお方であるからこそ、私たちのためにご自分の独り子をも下さったのです。
2026年1月29日の聖句
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