2019年9月23日月曜日

2019年9月23日(イザヤ書49〜50)

今日の通読箇所:テモテへの手紙一3、イザヤ書49~50

イザヤ書49~50;
天よ、喜び歌え。地よ、喜べ。山々よ、歓声を上げよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者を憐れまれるからだ。しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てられた。わが主は私を忘れられた」と。女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。(49:13~15)
主イエスは、私たちに主の祈りを教えてくださいました。「天にまします我らの父よ」と祈ることを教えてくださいました。ご自分の「父よ」という祈りの言葉を、私たちの口にも授けてくださったのです。
しかし、場合によっては「父よ」という祈りは、うれしい言葉ではなくなってしまいます。私たちの肉の父との関係によっては、父よと祈ってよいということが苦しいことにもなり得ます。今朝の母としての神の愛も、うれしい言葉である面と同時に場合によっては苦しい言葉でありうるのではないでしょうか。
神様は言われます。「たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない」。女が自分の乳飲み子を忘れること、自分の胎内の子を憐れまないことなど考えられない。父が自分の子どもを損なうことなど、あってはならない。しかし、そのあってはならないこと、考えられないことが実際にあるのが、私たちの現実です。しかし、「たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない」。神様の愛は、父の愛よりも、母の愛よりも深く、確かであり、変わることがない。
もしかしたら、私たちは、自分の知っている親子関係から類推して神様のことを考えるから、「主は私を見捨てられた」とつぶやいてしまうのではないでしょうか。実際の神様は、絶対にそのようなことをなさいません。私たちとは違うから。
だから、私たちは、自分自身が経験している親子の関係から神様のことを考えるのではなく、神様との関係から自分の親子関係を捉え直すという恵みにも招かれています。私たちの父に、あるいは母に、私たちは私たちのまことの父であり母である方の大いなる愛に促されて向かうこともまたできる。その日が、必ずやって来ます。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...