2019年9月24日火曜日

2019年9月24日(イザヤ書51〜52)

今日の通読箇所:テモテへの手紙一4、イザヤ書51~52

イザヤ書51~52;
私が、この私が、あなたがたを慰める者。あなたは何者か。死ぬべき人、草のごとく造られた人の子を恐れるとは。あなたは、自分を造り、天を広げ、地の基を据えられた主を忘れ、日夜、絶え間なく、虐げる者の憤りを恐れている。まるで彼が滅ぼすことに決まっているかのようだ。しかし、虐げる者の怒りはどこにあるのか。(51:12~13)
主なる神様が私たちを慰め、救ってくださるからには、私たちはほかの何者をも恐れてはなりません。それは全く不合理であり、間違ったことです。私たちが目に見える者をどんなに恐れたところで、それもまた神に造られたものに過ぎないからです。人も、制度も、病も、死も、すべては神の手の中にあります。だから、この主なる神様の救いの知らせは、神に造られたすべての人のもとに届けられなければならないのです。
「なんと美しいことか、山々の上で良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ、シオンに『あなたの神は王となった』と言う者の足は(52:7)」。あなたの神は王となった!私たちに告げられた、良い知らせです。王として、私たちの神は私たちに平和を告げてくださいます。21世紀になった今でも、この世界ではなんと平和が損なわれていることでしょう!なんと憎しみが支配してしまっていることでしょう!隣人を貶める言葉が氾濫し、自分たちの罪に目をつぶっています。しかし、神が、神の平和を宣言しておられます。
神が与えてくださる平和は、力によって成し遂げられるのではありません。反対する者を制圧し、自分と違う立場の者を言い負かして得られる平和ではありません。だから、この知らせは「多くの国民を驚かせる(15節)」ものです。なぜなら、この平和をもたらす救い主は「その姿は損なわれ、人のようではなく、姿形は人の子らとは違っていた(14節)」からです。軽蔑と蔑みの的になっておられる方が、私たちのまことの救い主なのです。
だから、神の民は捕囚の地から出て、約束の地、神の国へと旅をしていきます。かつてエジプトから出たように。かつてバビロンから出たように。私たちキリスト者は旅する神の民です。「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ。汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。主の祭具を担う者たちよ。急いで出なくてもよい。逃げるようにして行かなくてもよい。主があなたの前を行き、イスラエルの神がしんがりとなるからだ(11~12節)」。私たちの前を守り、後ろを守っていてくださる方がおられる。そうして、私たちは神の平和を目指す旅をするのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...