2019年9月25日水曜日

2019年9月24日(イザヤ書53〜54)

今日の通読箇所:テモテへの手紙一5、イザヤ書53~54

イザヤ書53~54;
あなたの贖い主はイスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。捨てられ、心を痛めた妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若い時の妻を見捨てることなどできようかーーあなたの神は言われる。ほんの僅かな間、私はあなたを捨てたが、深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す。(54:5~7)
神は私たちを、ご自分の若いときの妻であるかのように求め、私たちの罪のために例え僅かの間捨てたとしても、それが最後の判断ではなく、私たちを見捨てず、求め、必ず憐れんで救いだしてくださいます。だから、今私たちが苦しみの中にいたとしても、それは神の裁きによる苦しみではないのです。私たちは神の罰を受けて苦しんでいるのでも、神に呪われて痛んでいるのでもありません。なぜなら、神の罰も呪いも、全部を、ほかの方が引き受けてくださったからです。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて、、苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(53:3~5)
私たちの誰一人として考えもしなかった救いが、ここにあります。私たちのために病を引き受け、罪の結果をご自分のものとしてくださり、私たちに軽蔑されることによって私たちを救ってくださった。それが、神の救いの御業です。
私たちの病も苦しみも、それは神の罰ではない。呪いではない。却って、その痛み、苦しむものに、キリストは最もそば近く寄り添ってくださる。「彼は自分の魂の苦しみの後、光を見、それを知って満足する(11節)」。私たちは、キリストの苦しみの実りです。「多くの人の罪を担い、背く者のために取り成しをしたのはこの人であった(12節)」。この方が、私たちのために、父の右におられて私たちを執り成してくださっているのです。今日も!

2024年12月26日の聖句

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