2019年9月29日日曜日

2019年9月29日(イザヤ書63〜64)

今日の通読箇所:テモテへの手紙二3、イザヤ書63~64

イザヤ書63~64;
あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくとも、主よ、あなたは私たちの父です。「私たちの贖い主」がいにしえからあなたの名です。(63:16)
「私たちの贖い主」という言葉は、親族としての義務を果たすべき者、という意味のある言葉です。昔のユダヤでは、家族に男子がいなくなって家名が絶えてしまいそうになったとき、親族のある人が親族としての義務として、家名を存続させる役割を果たしました。その人を「贖い主」と呼びました。その言葉がここに使われています。神様が私たちの贖い主だというのは、神様が私たちの家族として振る舞ってくださった、ということです。神は私たちの父として、私たちをご自分の家族になってくださいました。
しかし、私たちと神様との関係は、こうでした。「彼らが苦しむときはいつでも、主も苦しまれた。御前に仕える御使いによって彼らを救い、その愛と憐れみによって彼らを贖い、昔からずっと彼らを負い、担ってくださった。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる霊を悲しませた。それで、主は彼らの敵となり、彼らと戦われた(63:9~10)」。神様は私たちの家族として振る舞っていてくださるのに、私たちは神に逆らい、神の聖なる霊を悲しませた。この「悲しませた」という一言に、私たちと神様との関係が凝縮されて言い表されているように思いました。
神様は、この悲しみをご自身に引き受けてくださいました。まさに家族として、悲しみながら私たちを招いてくださいました。私たちは、神の招きに応えて祈ります。「どうか主よ、激しくお怒りにならないでくさい(64:8)」。主の御前に、頭を垂れて祈りつつ、主の日の礼拝へと向かっていきましょう。

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