とても長かった第15章、そして一年以上かけて読んできたこの手紙の、今日はまさにクライマックスの部分です。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」勝利と言っているのは、勿論、この章でずっと話題になってきたとおり、死に対する勝利です。死に勝利して、我らは生きる!それが、この手紙の結論なのです。
私たちの生きるこの世界の現実は、まるで死に支配されてしまっているかのようです。戦争の噂が絶えることはありません。かつての軍拡競争の時代に戻ってしまったのでしょうか。日本では、隣の国との緊張を責任在る立場の者たちが煽っています。日本中会の神学社会委員会が、東京大空襲の資料館への平和スタディツアーを計画しているようです。20年前、母教会の高座教会にいたときに、東京大空襲に遭った教会員のCさんの証言を聞きました。戦争は、爆弾を落とされる民衆の目から見たら悲惨以外の何ものでもありません。そこら中に死体が転がっている。文字通りに死に覆われています。そんな世界の中で、私たちの生も死も、あまりに小さくて無力です。しかしその無力な者に、神は、勝利を賜るのだ、とパウロは力強く宣言します。
当時、Cさんは教会学校で毎月一度子どもたちに聖書のお話をしてくださっていました。力強い説教でした。教会学校で奉仕していた私はCさんとはそういう意味で親しい方だったので、このような経験をしてこられたことにたいへん驚きました。そして、約一年前に亡くなった私たちの教会の仲間であるTさんも、戦禍を生き抜いた方です。そのTさんは、一緒にお祈りをすると、よく「勝利」という言葉を口にしておられました。キリストの勝利、キリストにある我らの勝利。神が、私たちに勝利を与えてくださった。死への勝利を!TさんもCさんも、そして私たちも、確かにこの世界を覆う死にさらされているし、この肉体はやがて死んで朽ちてしまうことでしょう。しかし、私たちはキリストにあって、死に支配されないのです。
戦争がもたらす死は、私たち人間の罪が生み出す死です。いや、そもそも私たちは、自分たちの罪の中で死にます。「死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ローマ5:12)」。そのために私たちは苦しんでいる。神に造られた世界が虚無に服して、滅びに隷属し、呻いている。創世記を読んでみると、この世界は神の祝福の中に造られ、しかし人が神を捨ててその命の祝福を踏みにじりました。土から造られた人間の弱い肉体。しかし神さまのお造りになった世界の中で、祝福の内に生きていました。神を捨てた人間は、自分の肉体の弱さを隠すためにいちじくの葉で腰を覆った。なんとも惨めです。そんな人間が初めて着た衣服は、神が与えてくださった皮の衣でした。死から身を守るために、神は死ぬべきものに死なないものを着せてくださいます。キリストの命でこの体を覆ってくださいます。雨の日にカッパを着せるように、私たちを包んでくださいます。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」私たちはこの勝利の歌を共に歌う。神の愛は死に決して負けず、死は私たちを神の愛から引き離すことができないと確信しています。死に対する勝利のラッパの音が、響いています。