イエスが一緒におられない舟の中、湖のど真ん中にさしかかったときに逆風に見舞われる。進むことができなくなってしまった。そんな時、私たちは一体どうしたら良いのでしょう。「神さま、助けて」と、クリスチャンでなかったとしても思わず口をついて出てくるかもしれません。そんな時、イエスは湖の上を歩いて逆風に悩む舟に乗る弟子たちのところへ来たのだと聖書は言っています。
聖書を合理的に読んで、科学的に説明してみせようという試みが近代になって流行しました。そういう人たちにとって、水の上を歩いてイエスが現れたなどという話は、そのまま信じるに価しません。どうにかして合理的な説明を付けてやろうという格好の対象になります。この時、舟が湖の真ん中にいたというのは弟子たちの勘違いにすぎない。イエスは湖畔を歩いていて、弟子たちはそれに気づかず湖の上を歩いているのだと思い込んでしまった。そういう風に説明してみせる人もいます。
しかし、そう説明してみせたところで、どうということのない話です。むしろ、私は、ここには実際に嵐のような逆風に悩むキリストの弟子たち、キリストを信じる者のリアルな経験が描かれているということだと思います。
卑近な例に過ぎるかもしれませんが、私はここ10日あまりの間、いろいろな逆風に苦しい思いをしていました。家族全員がウイルス性胃腸炎に順番にかかったり、台風はここにも来ましたし、ガス給湯器が不具合を起こして使えなくなったり、わたし自身もひどい頭痛で寝込んだり、とにかくいろいろありました。気持ちがすさみました。そういうふうになっていくと、人間の本性が現れてしまいます。優しくないし、自分本位な素顔が、隠しきれなくなります。心身共に疲れました。
イエスが近づいたとき、弟子たちはイエスを見て「幽霊だ」と言って怯えました。恐怖のあまり叫び声をあげました。イエスが来たのに、安心できませんでした。「神さま、助けて」と祈っていても、実際に神さまが助けようとしたときに、「幽霊だ」と言って怯えているのは私なのかもしれません。助け手と祈りながら、神さまには実際に助ける力なんてないのだと、神さまを嘗めているのです。しかし、そんな弟子たちにイエスは言われます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」この「わたしだ」という言葉は特別な言葉です。神さまにしか言うことのできない言い回しをしています。イエスが湖の真ん中、逆風の中で「わたしだ」と言って弟子たちに近づいて来たというのは、「わたしがお前を救う神だ」ということです。「わたしがお前を救う」という意味です。
イエスの「わたしだ」という言葉を聞くことができれば、この逆風も、怖くはないのです。恐れずに安心することができるのです。舟は小さくて、逆風のために進めず、それどころか今にも転覆しそう。それは、私たちの小さな教会のようです。しかし、この小さな舟には、イエスの「わたしだ」という声が響いています。弟子の一人のペトロという人は、自分も湖の上を歩いてイエスのところへ行きたくなりました。そう願い、数歩進みましたが、風に気づいたときに沈んでしまった。私たちの目は、どこに向いているのでしょう。イエスの「わたしだ」を疑わずに信じていれば、恐れるべきものは何もありません。だから、大丈夫。あなたも大丈夫。イエスはここに来てくださっています。