2019年10月13日日曜日

コリントの信徒への手紙一第16章1から4節「福音と恵みの分かち合い」


 長かったこの手紙もついに最後の章を迎えました。ここのところは「聖なる者たちのための募金については」と始まっています。この募金というのは、三節に「その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう」と言っているとおり、エルサレムの教会のための募金のことです。それでは、なぜ、エルサレム教会は募金を必要としていたのでしょうか。使徒言行録11:2730に、エルサレムを襲った飢饉の話が出てきます。クラウディウス帝の時代に飢饉があり、「弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を贈ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた」とあります。このサウロが、パウロのことです。このクラウディウス帝の時代というのは、パウロがコリント教会に手紙を書いた時から見たら数年前ということになります。つまり、パウロは、エルサレム教会の仲間たちが何年か前に見舞われた基金からの復興のために、新しく生まれた教会の仲間たちに募金を求め、それをエルサレムに運ぶことをとても大切にしていた。忘れずに大切にし続けていた、ということになります。
 しかし、これは単に災害のために苦しんでいる者を、余裕のある者が助けていた、というだけの話ではありません。パウロはこの募金について、各地の教会に奨励していました。コリントの信徒への手紙二8:12にはこのようにあります。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」マケドニアの教会は、自分たちも極度に貧しかったのに、喜んで献げました。ローマの信徒への手紙15:27には、「異邦人はその人たちの霊的なものに与ったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」とあります。「霊的なもの」というのは、キリストの福音のことです。キリストの福音を聞いて信じた者は、募金という自分の生活に伴う痛みをもって、「彼らを助ける義務」があるとパウロは訴えます。
 「聖なる者たちのための募金について言えば」とパウロは言っています。「聖なる者たち」とエルサレム教会を呼んでいます。思い返せば、この手紙の冒頭では手紙の受け手であるコリント教会のことを「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人びと」と呼んでいました。コリント教会をエルサレム教会と同じように呼んでいます。コリントの人びとも、エルサレムにいるペトロやヨハネやヤコブと同じキリストを信じる聖なる者たちだからです。新約聖書は、誰か崇高な宗教的天才を指して「聖なる者」とは言いません。聖なる者はいつも複数であって、キリストを仰ぐ教会という共同体を指します。独りぼっちの聖なる者はいない。聖なる教会がある。エルサレムの人たちが信じたのと同じキリストを信じる私たちも、聖なる教会とされているのです。この交わりは、キリストの福音を届け、募金を届けるという具体的な教会間の交わりを生み出すのです。
 具体的な交わりなので、この募金は「あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう」と、顔と顔とを合わせる交わりになります。異邦人の教会から、エルサレムに向かっていく。神さまの起こしてくださった奇蹟ではないでしょうか。

2025年7月17日の聖句

主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。(エレミヤ17:14) 「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」。そして「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち...