2019年10月13日日曜日

2019年10月13日(エレミヤ書24〜25)

今日の通読箇所:ペトロの手紙一4、エレミヤ書24~25

エレミヤ書24~25;
預言者エレミヤは訴えます。「ユダの王、アモンの子ヨシヤの治世第十三年から今日までこの二十三年間、主の言葉が私に臨み、私は繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。主は僕であるすべての預言者を繰り返し遣わしたが、あなたがたは聞かず、耳を傾けようともしなかった。そこで言われた。『さあ、おのおの、その悪の道から、あなたがたの悪行から立ち帰り、主があなたがたとあなたがたの先祖に与えた土地に、とこしえに住め。あなたがたは他の神々に従い、それに仕え、それにひれ伏してはならない』(25:3~6)」。しかし、人々はなおも耳を傾けようとはしませんでした。そこで、決定的な裁きの言葉が下されます。「私は、彼らの喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声、挽き臼の音、灯の光を絶えさせる。この地はすべて廃墟となって荒れ果て、これらの国民はバビロンの王に七十年間仕える(25:10~11)」。こうして、バビロンに捕囚されるということが、決定的な仕方で預言者の口から語られたのです。
私はこの御言葉を読んで、今日の新約の通読箇所として指定されているペトロの手紙の御言葉が描き出されているように思いました。「キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。それは、もはや人の欲望によってではなく、神の御心によって、肉における残りの生涯を生きるためです(ペトロ一4:1)」。苦しみを受けたとき、それがキリストの苦しみに与っているのだと受け止めることができれば、その苦しみはむやみに苦しいだけのものではなくなります。私たちをかつての罪の生活から清める試練になります。捕囚という現実が迫るユダの民にとって、この苦しみはどういう意味を持つのでしょうか。私たちの苦しみの現実は、私たちにとっていかなる意味を持つのでしょうか。「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が崇められるため(ペトロ一4:11)」に、私たちは私たちの「今」を受け止めなおすことができるのです。

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27) まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23) ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょ...