2019年10月27日日曜日

コリントの信徒への手紙一第16章5から24節「主イエスを待ち望みつつ」


 使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙を読んできました。一年以上かけて読んできましたが、最後に来て、改めてこれは「手紙」なのだと思います。これは論文ではありません。まさに手紙と呼ぶにふさわしい、具体的な送り手から具体的な受け手へ宛てて書かれたものです。ステファナ、フォルトナト、アカイコという名前が登場しています。どういう人なのかは分かりません。しかしコリントの町から教会を代表して、エフェソにいるパウロのところへ訪ねてきてくれたのでしょう。そのことがパウロには嬉しかったのです。実に生き生きとしたやりとりです。この手紙を受け取ったコリントの教会は、皆でいっしょにこの手紙の朗読に耳を傾けたのでしょう。いつ、この手紙が読まれたのか。学者たちは口をそろえて言います。主の日の礼拝の席に違いない、と。恐らく、今私たちの教会で説教が語られ、それを聞くように、パウロの手紙も礼拝で朗読され、皆でそれに耳を傾けたのです。
 「主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように」という祝福の言葉は、当時の礼拝で告げられていた言葉に違いありません。パウロは、コリント教会のことを「あなたがたはキリストの体」だと呼んでいました。キリストの体、教会。それは主イエスの恵みによって建てられます。教会とは、建物のことではありません。キリストに呼び集められた神の民、共同体のことです。建物は35年とか50年とか建てば、次第に経年劣化します。メンテナンスしなければ、その傷はますます深くなります。教会という共同体にもメンテナンスは必要です。パウロはまるで熟練した建築士のように、教会共同体がもう一度キリストにあって建て直されるようこの手紙を書きました。
 コリント教会には、分派争いがありました。この世の性的な乱れを無批判に受け入れている人もいました。しかし他方には生涯独身を貫こうという高潔な人もいた。富んだ人もいたので、豊かだったかもしれません。自由人という当時の社会のハイソサエティに属す人がいたので、社会の尊敬を得やすかったかもしれません。礼拝では異言で特別な祈りをすることできる人もいました。賜物が豊かな共同体でした。しかし、教会は深刻に傷ついていました。その急所は一体どこにあるのか。パウロは見抜いていました。この手紙の最後にも、それが顕れていると思います。パウロは手紙を閉じるにあたって、自分の手で「マラナ・タ」と書きます。「主よ、来てください」という意味です。主イエス・キリストを待ち望む祈りの言葉です。私たちは、キリストを待ち望む教会として生きているか?それがここでの問いの急所です。
 大切なお客様をお迎えするとき、私たちは家をきれいに掃除します。お客様に気持ちよく来て頂けるよう準備します。キリストをお迎えするために私たちは何をして待つのでしょう。「何事も愛をもって行いなさい」とパウロは命じました。思えばこの手紙は、第13章は言うに及ばず、結婚の問題にしても偶像に供えられた肉の問題にしても、すべて愛をもって行えと言い続けていました。この愛は、十字架にかけられたキリストによって示された愛です。その愛に私たちが生きることこそ、主をお迎えする準備に他なりません。私たちも、主キリストが来てくださるのを待ち望んでいます。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...