2019年10月15日火曜日

2019年10月15日(エレミヤ書28〜29)

今日の通読箇所:ペトロの手紙二1、エレミヤ書28~29;

エレミヤ書28~29;
エレミヤはバビロンに捕囚された同胞に手紙を書き送りました。「イスラエルの神、万軍の主は、私がエルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に、こう言われる。家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べなさい。妻をめとって息子、娘をもうけ、息子には妻を与え、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そこで増えよ。減ってはならない。私が、あなたがたを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい(29:4~7)」。
受け取った人の気持ちを考えてみると、どうなのでしょうか。祖国は長い苦しみの末に戦争に敗れ、国家として崩壊し、人々は遠い外国に連れて行かれてしまいました。その捕囚先に来た手紙に、捕囚の期間は長いからしっかりと根を張り、次世代もそこで生きていけ、と言われているのです。あんまりにも人の気持ちを考えていないと、とても傷つくのではないでしょうか。
対してエレミヤと対決したハナンヤは、バビロン何ほどの者ぞ、神が助けてくださると言って、人々が言ってほしい言葉を預言します。しかしそれは主から出た言葉ではない、とエレミヤは主張します。私たちはこの後の歴史を知っているので、真実はまさにエレミヤの言うとおりだと分かります。しかし当事者に身を置いたとき、聞きたいのはハナンヤの言葉であって、エレミヤの言葉ではないのではないでしょうか。
しかし、主は言われます。自分たちの聞きたい言葉だけを聞いたときに何が起こるのか。「私がわが民に行う恵みの業を見る者もいなくなる。彼が主に逆らって語ったからである(29:31)」。私たちの願望から生まれる言葉は、私たちの想像の域を超えることがありません。しかし神様の起こしてくださる救いの御業は、私たちの思ってもみなかった、私たちの想像を完全に超えた、広くて大きく、すばらしいものです。いつでも、そうです。だから、私たちは自分の願いの殻の中に閉じこもってはならないのです。神様は、時に私たちの罪を糾弾し、聞きたくないことを聞かせます。しかしそれは私たちを試し、悔い改めさせ、大いなる救いに導き入れるためのプロセスです。その証拠に、私たちの誰も思いつかなかった救い主、神の独り子という救い主が、私たちのところへ来てくださいました。「こうして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるのです(二ペトロ1:11)」。

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27) まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23) ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょ...