2019年10月29日火曜日

2019年10月29日(哀歌3)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書7:32~53、哀歌3

哀歌3;
主に軛を負わされたなら、黙って独り座るがよい。塵に口をつけよ。そうすれば希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を差し出し、そしりを十分に受けよ。(28~30節)
自分の実態と、とても違うと思わざるを得ない。苦しみのとき、それを主に負わされた軛として受け止め、黙って座っているだろうか。苦しいという事実だけでいっぱいになってしまい、主なる神様との関わりの中でそれを受け止め直すことがなかなかできない。あるいは、神様が登場したとしても不平不満をつぶやくばかりになっている・・・。しかし、哀歌の祈りに私の心を合わせるなら、哀しみの中から主なる神様を見上げることを学ぶ。哀しみの中では、自分の抱えている問題ばかりが大きくなってしまい、神様が小さくなっていく。哀しみや苦しみが神を小さくしているのではなく、私が神を小さくして、見くびっているのだ。ところが、哀歌は、哀しみの中で塵にはいつくばって口をつけるときにこそ、希望が見えるはずだと言う。神が、その哀しみの中におられるからであろう。それ以外には理由はないのではないか。
「主の慈しみは絶えることがない。その憐れみは尽きることがない。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は尽きることがない」(22~23節)。私たちは、主なる神様の慈しみと憐れみに信頼しよう。不信仰には、私たちがそれに付き合わなければならぬほどの価値がないのだ。しかし、主の慈しみは永遠だ。
「主は、ご自分に希望を置く者に、ご自分を探し求める魂に恵み深い。主の救いを黙して待ち望む者に恵み深く、若いときの軛を負う者に恵み深い」(25~27)。主の恵みを、黙して待ち望もう。決して私たちを見放すことも、見捨てることもないお方を、私たちは仰ぎ臨もう。ここに、私たちのための主の救いがあるのだから。

2024年3月29日の聖句

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