今日の通読箇所:テトスへの手紙3、エレミヤ書5
エレミヤ書5;
エルサレムの通りを行き巡り、見渡してしるがよい。町の広場で探せ、一人でも見つかるだろうか、公正を行う者、真実を探求する者が。もしいるなら、私はエルサレムを赦そう。ところが、「主は生きておられる」と言っても、実は、彼らは偽りを誓っているのだ。(5:1~2)
公正を行う者、真実を探求する者は、もはやエルサレムに一人もいない。主なる神様はそう言われます。エルサレムは、神の民の中心地です。ここに神殿があり、祈りの場であり、人々が礼拝に来る場所です。しかし、そこにも、公正を行う者がもはや一人もいない、真実を探求する者が一人もいない。彼らは「主は生きておられる」と口で言っても、その行き方が言葉を裏切り、偽りを誓っているに過ぎない。ここには、神様の悲痛な思いが込められています。
さらにこの章の最後を見ると、このように書かれています。「預言者たちは偽って預言をし、祭司たちは自分勝手に治め、わが民はそれを好んでいる。しかしその果てに、あなたがたはどうするつもりか(31節)」。神の言葉を取り次ぐ預言者や、民のために祈りをする祭司が、偽りや自分勝手に振る舞っている。しかも、民もそれを喜んでいる。これは、私たちにいかにも起こりうることだと思います。格好ばかりの信じているポーズや、惰性の信仰生活で、疲れないように、楽に、深く考えずに済まそうとしてしまう。
しかし、この第5章を読んで感じるのは、神様の本気です。「これを聞け、愚かで思慮のない民よ。彼らには目があるのに、見ず、耳があるのに、聞くことがない。あなたがたは私を畏れもせず、私の前におののきもしないのかーー主の仰せ(20~22節)」。私たちが見ているつもりで見ておらず、聞いているつもりで聞いていないのは、神様を真に神様として礼拝し、畏れ、ひれ伏すこと。すなわち「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない(出20:3)」という信仰の公理です。神を神としてあがめることにこそ、私たちの命がある。私たち造られた者としての幸いも、ここにあります。
2025年12月15日の聖句
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。(イザヤ53:5) 私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:32) 神は私たちに御子を与えてくださいました。あま...
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