2019年10月4日金曜日

2019年10月4日(エレミヤ書6〜7)

今日の通読箇所:フィレモンへの手紙、エレミヤ書6~7

エレミヤ書6~7;
あなたがたは、「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」という偽りの言葉を信頼してはならない。あなたがたは本当にあなたがたの道と行いを改め、本当に互いの間に公正を行うなら、この場所で、寄留者、孤児、寡婦を虐げず、罪なき人の血を流さず、他の神々に従って自ら災いを招かないならば、私はあなたがたをこの場所に、あなたがたの先祖に与えた地に、いにしえからとこしえまで住まわせる。(7:4~7)
寄留者、孤児、寡婦は、社会の一番の弱者です。弱者を虐げることを、神様はお許しになりません。それは、エレミヤの時代も、今も、変わることのない神様の御心です。彼らを虐げておいて、「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」というような信仰的に見えそうな言葉を口にしたとしても、そんなものは空しい言葉に過ぎない。主は、そのような空虚な言葉を却って忌み嫌われる。主なる神様はそのように言われます。
私たちの社会でも、変わることなく、社会的弱者が虐げられ続けています。教会が彼らに心を向けねばならないのは、神様の心が彼らに向いているからです。私たちは、私たちそれぞれが神様から遣わされているところで出会う社会の中で排除されている人と共に生きるために、神様にある和解の業に招かれているのです。
「小さな者から大きな者に至るまで皆、暴利を貪り、預言者から祭司に至るまで皆、虚偽をなす。彼らは、わが民の傷を安易に癒やして、『平和、平和』と言うが、平和などはない。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。それを少しも恥ずかしいと思わず。屈辱に気づきもしない(6:13~15)」。これも、同じことを言っているのだと思います。『わが民の傷を安易に癒やして』いるというのは、耳が痛い言葉です。私たちが本当に癒やされるという出来事は、個人的に心の安寧を取り戻せるお言葉を聞くことではなく、私たちがキリストの平和のために仕える者として変えられていくプロセスで起こります。神様は、私たちをまことの平和へと、そしてまことの神礼拝へと招いておられます。十字架のキリストこそが私たちの平和であるからです。

2025年9月1日の聖句

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