今日の通読箇所:ヤコブの手紙1、エレミヤ書8~9
エレミヤ書8~9;
私の悲しみは癒やし難く、私の心は弱り果てている。聞け、遠くの地から届く娘であるわが民の叫び声を。「主はシオンにおられないのか。シオンの王はそこにはおられないのか。」なぜ、彼らは彼らの彫像によって、異国の空しいものによって、私を怒らせたのか。(8:18~19)
ここを読むと、一瞬、ここで言っている「私」とは誰のことかと思ってしまいます。「私の悲しみは癒やしがたく、私の心は弱り果てている。」預言者エレミヤのことでしょうか。しかし、最後には「なぜ彼らは私を怒らせたのか」と言っているので、やはり神様のことでしょう。そうとすると、神様の悲しみは癒やし難く、神様の心が弱り果てている、ということになります。そのようなことがあり得るのでしょうか。
神様は永遠不変であって、どんなことがあっても心に悲しみが満ち、ましてそれが癒やされないことなどありえない。ある人はそう考えるかもしれない。しかし、私たちの神様はそうではありません。悲しまれる方、悲しみに暮れる方です。どんな慰めも届かないほどに深く悲み、そのために心が弱ってしまうお方、それが私たちの神様です。
だから、神様をここまで深く悲しませる私たちは、神を悲しませている自分の罪に気づいたときにできることは、ただ一つなのではないでしょうか。「女たちよ、主の言葉を聞け。あなたがたの耳は主の口の言葉を受け入れよ。あなたがたの娘たちには嘆きの歌を、互いに哀歌を教えよ(9:19)」。神様の悲しみに気づいたとき、私たちにできることは、神を悲しませている自分の罪を悲しむことです。悲しみの歌を口にしながら、神様の御前に悔い改めることです。神の前に悲しむとき、神は私たちに誇りを取り戻させてくださいます。「誇る者はただこのことを誇れ。悟りを得て、私を知ることを。私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。これらのことを私は喜ぶーー主の仰せ(23節)」。罪の悲しみの中、私たちは神を知ることがゆるされている。このことをこそ、私たちは誇りに思います。
エレミヤ書8~9;
私の悲しみは癒やし難く、私の心は弱り果てている。聞け、遠くの地から届く娘であるわが民の叫び声を。「主はシオンにおられないのか。シオンの王はそこにはおられないのか。」なぜ、彼らは彼らの彫像によって、異国の空しいものによって、私を怒らせたのか。(8:18~19)
ここを読むと、一瞬、ここで言っている「私」とは誰のことかと思ってしまいます。「私の悲しみは癒やしがたく、私の心は弱り果てている。」預言者エレミヤのことでしょうか。しかし、最後には「なぜ彼らは私を怒らせたのか」と言っているので、やはり神様のことでしょう。そうとすると、神様の悲しみは癒やし難く、神様の心が弱り果てている、ということになります。そのようなことがあり得るのでしょうか。
神様は永遠不変であって、どんなことがあっても心に悲しみが満ち、ましてそれが癒やされないことなどありえない。ある人はそう考えるかもしれない。しかし、私たちの神様はそうではありません。悲しまれる方、悲しみに暮れる方です。どんな慰めも届かないほどに深く悲み、そのために心が弱ってしまうお方、それが私たちの神様です。
だから、神様をここまで深く悲しませる私たちは、神を悲しませている自分の罪に気づいたときにできることは、ただ一つなのではないでしょうか。「女たちよ、主の言葉を聞け。あなたがたの耳は主の口の言葉を受け入れよ。あなたがたの娘たちには嘆きの歌を、互いに哀歌を教えよ(9:19)」。神様の悲しみに気づいたとき、私たちにできることは、神を悲しませている自分の罪を悲しむことです。悲しみの歌を口にしながら、神様の御前に悔い改めることです。神の前に悲しむとき、神は私たちに誇りを取り戻させてくださいます。「誇る者はただこのことを誇れ。悟りを得て、私を知ることを。私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。これらのことを私は喜ぶーー主の仰せ(23節)」。罪の悲しみの中、私たちは神を知ることがゆるされている。このことをこそ、私たちは誇りに思います。