2019年11月10日日曜日

2019年11月10日(エゼキエル書21〜22)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書13、エゼキエル書21~22

エゼキエル書21~22;
私はあなたが得た不正な利益と、あなたの中で行われた流血に対して、手を打ち鳴らす。私があなたに立ち向かう日に、あなたの心は耐えられるだろうか。またあなたの手は強くありえようか。主である私がこれを語り、これを行う。(22:13~14)

不正な利益と流血いては、第22章の冒頭から詳しく言及されています。「彼らはあなたの中で父と母を軽んじ、あなたの中で寄留者を虐げ、孤児や寡婦を抑圧している。あなたは私の聖なるものを侮り、私の安息日を汚した」(22:6~7)。さらに、偶像礼拝や性的な不品行、賄賂などについて指摘されています。神は、これらの罪を裁く、と言われます。「私はあなたを諸国民の中に散らし、国々に追い散らす。そしてあなたから汚れを取り除く。あなたは諸国民の前で自分自身を汚したのだ。こうして、あなたは私が主であることを知るようになる」(15~16節)。
寄留者、孤児、寡婦は、どれも社会的弱者です。弱者の権利を重んじ、彼ら・彼女らを軽んじるなと言われています。エゼキエルだけではなく、聖書は一貫してそのように言い続けてきました。これだけ繰り返してその点での罪が指摘されているというのは、逆に、どれほど口を酸っぱくして言われても弱者が蹂躙されていたということの証左であろうと思います。それは私たちの社会も全く同じです。
弱者が生きにくい社会は、結局誰にとっても生きにくい社会にならざるを得ません。経済的に豊かであっても、そんなものは貧しい社会です。社会のあり方としては貧相で賤しいだと思います。しかし、人間の欲目は、私たちを近視眼的にします。自分さえよければという気持ちにさせます。どうしたら解放されるのか?
預言者エゼキエルは、神の裁きを思い起こさせます。寄留者、孤児、寡婦を決して忘れることのない神が、私たちの手にした不正な富をお許しにはならないと告げます。私たちに、生き方を方向転換せよと言われます。
預言者エゼキエルが語る言葉は、とても厳しい言葉ばかりです。しかしそれはそれだけ真摯な一人の信仰者の存在から絞り出されるような言葉であったからなのだろうと思います。エゼキエルは、ただ神の前にだけひれ伏すことに真剣でした。そして、神様はこのような一人の人を通して私たちに語りかけておられるのです。

2025年1月16日の聖句

人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。 その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11) 神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。...