2019年11月9日土曜日

2019年11月9日(エゼキエル書19〜20)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書12:20~50、エゼキエル書19~20

エゼキエル書19~20;
イスラエルの歴史は、神に対して罪を重ねた歴史でした。神様を蔑ろにし、侮って捨て、神ならぬものを神として拝んできた。それがイスラエル、神の民の歴史であったと繰り返されているように思います。しかし、神様はそんな民を見捨てず、救い続けてくださいました。
「彼らは私に逆らい、私に聞き従おうとしなかった。おのおの、目の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てなかった。そこで私は言った。『エジプトの地で憤りを彼らに注ぎ、怒りを彼らに燃やし尽くそう。』しかし私は私の名のために行動し、彼らが住む諸国民の前で、私の名が汚されることのないようにした。すなわち、彼らをエジプトの地から導きだし、諸国民の前で彼らに私を知らせたのである」(20:8~9)。ここに出てくる『私の名』、つまり主なる神様のお名前という事柄は、エゼキエル書の一つのテーマであると思います。22節にも「しかし、私は手を引き戻し、私の名のために行動し、諸国民の前で私の名が汚されることのないようにした」と言われています。そして、44節でも「私があなたがたの悪の道や堕落した行いによってではなく、私の名のためにあなたがたを遇するとき、イスラエルの家よ、あなたがたは私が主であることを知るようになるーー主なる神の仰せ」とあります。
主なる神様が私たちを救ってくださるのは、ご自分の聖なるお名前のため、それが汚されないためだ、と言われます。これは、私たちには予想外のことではないでしょうか。私たちは、いつの間にか、私たちが救われるのは私たちのためだと考えがちです。神は私が幸せになるために私を救ってくださる、と。それはもちろんそうなのでしょうが、しかし、神の救いの御業は、神様ご自身のお名前のためだという事実を軽んじることは許されないのではないでしょうか。
神の名が汚されるというのは、神様の名誉が損なわれるということなのだろうと思います。そうすると、私たちの救いに、神様の名誉がかかっているということになります。これは驚くべき事です。私は私のために救われるのではない。神様の名誉にかけて、神様は私を救ってくださっている。この厳粛な事実の前に、私たちは、ただ身をかがめてこのお方を礼拝するのみです。

2025年1月16日の聖句

人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。 その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11) 神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。...