2019年11月10日日曜日

ヨハネによる福音書第1章6から13節「神の子が生まれた」


 子どもの頃、早朝に起きて星を観測したことがありました。望遠鏡でじっと星を見ていると、次第に空が白んで明るくなってきます。普段は星を見ることのない時間の観測も楽しかったですが、同じように、昇りゆく朝日に照らされて、周囲が明るくなることの温かさもよく覚えています。闇夜の中も、暁から曙にかけての時間も、光の与える勇気はかけがえのない体験になりました。
 アウグスティヌスがこんなことを言っています。「(ヨハネは)いわゆる意気阻喪した人びと、病気の心、魂の目の弱った人びとのところに来た。彼は彼らのために来たのである。では、完全な形で存在しているものをどのように魂は見ることができるだろうか。しばしばそうであるように、我々が目で認めることが不可能な昇る太陽も、物体が照らされることによって認識される。なぜなら、眼痛の者でも、太陽に照らされた断崖を見ることができるか、あるいは、山、木、あるいはそれと似たものを見ることはできる。そして、別の照らされた物体の中では、太陽は、みずからを昇る太陽として彼らに示すが、彼らにはその光景を見るだけの視力がない。従って、キリストに来て頂いたすべての人は、いまだにキリストを見ることができなかったのである。キリストがヨハネを照らした。そして、キリストが照らし輝いているが自らは照らし輝いていないことを告白した者を通して、照らし明るく成就したあのお方が知られたのである。」ヨハネは、朝日が山頂を照らして朝を告げるように、山頂として、朝の光の到来を証ししたのです。
 ヨハネが証しした光はまことの光で、世に来てすべての人を照らします。すべての人を照らしているのですから、朝日が誰をも分け隔てなく照らすように、この世のすべての人が神のまことの光に照らされていることになります。この光は、私たちを暗闇から光の中に移すために来たのです。
 しかし、光に照らされたとき、闇の中では見えていなかった不都合な事実も明らかになってしまいます。今朝の通読箇所に指定されていたエゼキエル書22:612には、社会の中で外国人や孤児、寡婦、女性、貧しい者などが虐げられていることが告発されています。預言者エゼキエルは、社会の中の弱者への不正を繰り返し告発しています。私はこれを読んで思いました。私は今子育て中ですが、そこで感じるのは、社会と子育てしている親との基本的な信頼が損なわれているということです。今の親はあまり社会を信頼していません。この社会が子どもに好い影響を与えると考えていない。社会も親を信頼していません。繰り返される虐待のニュース、あるいは子どもは迷惑だという大人の感覚。わが身をふり返ると、親としても社会としても劣化していて、自分優先のために子どもを犠牲にしてしまっている。エゼキエルの告発を読むと、社会的弱者の血を流すことと神を神として拝むことを放棄したこととは一つの事です。更にエゼキエルの告発の対象は神を信じているはずの神の民であって、異教徒ではない。つまり、この私が問題なのです。
 しかし、そのような暗闇そのものである私が、御子イエスにあって神の子となる資格を頂いたのです。私たちの欲や願いのためではなく、神様が、私を神の子としてくださいました。この途方もない知らせが、聖書の語る福音です。だから、私たちは神に向かって「父よ」と祈るのです。

2025年1月16日の聖句

人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。 その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11) 神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。...