今日の通読箇所:ヨハネによる福音書14、エゼキエル書23~24
エゼキエル書23~24;
第23章にはオホラとオホリバという二人の女が登場します。二人は姉妹で、姉のオホラは北王国イスラエル、妹のオホリバは南王国ユダを象徴しています。主はエゼキエルに、イスラエルとユダの姿を二人の姉妹に譬えて示しています。
「オホラは私のものであったのに、淫らな行いをし、その愛人である戦士アッシリア人に浴場を抱いた」(5節)と言われています。そして、かなり強烈な表現で、オホラは主なる神への操を通すことなく、淫らな欲情のままに愛人の手に自分を委ねた、と指摘されています。それは偶像礼拝であったり、他国との軍事同盟で安心を保証したり、そうやって神を捨てた振る舞いを指摘しているのでしょう。そんなオホラを神は裁かれた。「それゆえ、私は彼女をその愛人の手に、彼女が欲情を抱いたアッシリアの人々の手に渡した。彼らは彼女の裸をさらし、彼女の息子や娘を奪い取り、剣で彼女を殺害した」(9~10節)。
それを間近で見ていた妹のオホリバは、しかし、「彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫らな行いは姉の淫行を越えて激しかった」と糾弾されています。イスラエルよりも、ユダの方がもっと罪深いと言います。だから、神はオホリバであるユダをも裁くと告げられています。
それが実行に移されたのが、第24章です。「第九年の第十の月の十日に、主の言葉が私に臨んだ」(1節)。そこで告げられたのは、「私は差し控えず、惜しまず、悔いることはない。あなたの歩みと行いに従ってあなたを裁く」(14節)という言葉なのでした。第九年の第十の月の十日と言っていますが、列王記下25:1以下を見ると、このちょうどこの日にバビロンのネブカドネツァル王が攻めてきました。第11年の第四の月までエルサレムは包囲され、その後、滅亡します。前587年の第二回バビロン捕囚です。これが、オホリバであるユダへの裁きでした。
その時、エゼキエルの妻が死にました。彼女は彼にとって「目に慕わしい者」(15節)です。しかし、妻の死を嘆き悲しんではならないと神に命じられました。これから、エゼキエルやユダの人々の目に慕わしい都が神殿が崩壊する。ユダの人々はそれを嘆き悲しんではならない、エゼキエルの妻の死に際する振る舞いはそのしるしとなれというのが神のご命令でした。エゼキエルが神に命じられた生き方は、過酷なものです。しかしそのようにして、神がどんなにユダとイスラエルの心の離反を嘆き、姦淫としか言いようのない思いをもってあなたたちを慕っていてくださるのかを知ってほしい、心を向けてほしいと、声を大きくして訴えているように思います。
エゼキエル書23~24;
第23章にはオホラとオホリバという二人の女が登場します。二人は姉妹で、姉のオホラは北王国イスラエル、妹のオホリバは南王国ユダを象徴しています。主はエゼキエルに、イスラエルとユダの姿を二人の姉妹に譬えて示しています。
「オホラは私のものであったのに、淫らな行いをし、その愛人である戦士アッシリア人に浴場を抱いた」(5節)と言われています。そして、かなり強烈な表現で、オホラは主なる神への操を通すことなく、淫らな欲情のままに愛人の手に自分を委ねた、と指摘されています。それは偶像礼拝であったり、他国との軍事同盟で安心を保証したり、そうやって神を捨てた振る舞いを指摘しているのでしょう。そんなオホラを神は裁かれた。「それゆえ、私は彼女をその愛人の手に、彼女が欲情を抱いたアッシリアの人々の手に渡した。彼らは彼女の裸をさらし、彼女の息子や娘を奪い取り、剣で彼女を殺害した」(9~10節)。
それを間近で見ていた妹のオホリバは、しかし、「彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫らな行いは姉の淫行を越えて激しかった」と糾弾されています。イスラエルよりも、ユダの方がもっと罪深いと言います。だから、神はオホリバであるユダをも裁くと告げられています。
それが実行に移されたのが、第24章です。「第九年の第十の月の十日に、主の言葉が私に臨んだ」(1節)。そこで告げられたのは、「私は差し控えず、惜しまず、悔いることはない。あなたの歩みと行いに従ってあなたを裁く」(14節)という言葉なのでした。第九年の第十の月の十日と言っていますが、列王記下25:1以下を見ると、このちょうどこの日にバビロンのネブカドネツァル王が攻めてきました。第11年の第四の月までエルサレムは包囲され、その後、滅亡します。前587年の第二回バビロン捕囚です。これが、オホリバであるユダへの裁きでした。
その時、エゼキエルの妻が死にました。彼女は彼にとって「目に慕わしい者」(15節)です。しかし、妻の死を嘆き悲しんではならないと神に命じられました。これから、エゼキエルやユダの人々の目に慕わしい都が神殿が崩壊する。ユダの人々はそれを嘆き悲しんではならない、エゼキエルの妻の死に際する振る舞いはそのしるしとなれというのが神のご命令でした。エゼキエルが神に命じられた生き方は、過酷なものです。しかしそのようにして、神がどんなにユダとイスラエルの心の離反を嘆き、姦淫としか言いようのない思いをもってあなたたちを慕っていてくださるのかを知ってほしい、心を向けてほしいと、声を大きくして訴えているように思います。