2019年11月2日土曜日

2019年11月2日(エゼキエル書3〜5)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書9:24~41、エゼキエル書3~5

エゼキエル書3~5;
「その時、霊が私を引き上げた。主の栄光がその場所から上ったとき、私は背後に大きなとどろく音を聞いた」(3:12)。エゼキエルは最初ケバル川のほとり、捕囚の民と共にいたときに主の栄光と出会いました。主は「人の子よ、さあ、イスラエルの家に行き、私の言葉を彼らに話しなさい」(4節)と彼に命じ、イスラエルの人々のところへ遣わします。反逆の家、イスラエルを前にしてもおののくことなく、神が語れとお命じになったことを語るようにと言われます。「こうして私は、ケバル川のほとりに住んでいるテル・アビブの捕囚の人々のところに行った。彼らが住んでいるまさしくその所で、私は茫然として七日間、彼らの間に座っていた」(15節)。主の栄光は、エゼキエルと捕囚の地で出会い、捕囚の民のところへ遣わしました。
「その場所で主の手が私の上に臨んだ主は私に言われた。『立って、平野に出て行きなさい。そこであなたに語ろう。』私が立って、平野に出て行くと、そこに、主の栄光が、ケバル川のほとりで私が見た栄光のままにとどまっていた」(23節)。ここでも、やはり場所は変われど主が栄光の内にエゼキエルに出会い、ご自身の霊によって彼を立たせ、御言葉を語りかけます。エゼキエルは行く先々でそのようにして主と出会い続け、御言葉を語る者として立てられていきます。
エゼキエルの口に託された言葉、彼の生き方を通して示されるべき御言葉は、耳を塞ぎたくなるようなものが多かったようです。第4章では、人糞でパンを焼くことで、主の前にある人々の汚れを表すようにとさえ言われます。あるいは、民の悲惨が「父がその子を食らい、子がその父を食らう」(5:10)という言葉で語られています。それでも、その厳しい言葉を語らせるために、主の栄光が捕囚の民の中にあり続け、語る者を神が召しておられます。神様は、汚れ、親子が憎しみ合うような民を、なお見捨てることなく、御言葉を語り続けてくださいます。主の栄光が、それでもなお民を離れていないのです。それは、驚くべき事ではないでしょうか。

2024年5月17日の聖句

あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。(出エジプト記23:9) 正しい人たちが王に尋ねた。「主よ、いつ、見知らぬ方にお宿をお貸ししたでしょうか。」王は答えた。「よく言っておく。この最も小さな...