今日の通読箇所:ヨハネによる福音書10:1~21、エゼキエル書6~7
エゼキエル書6~7;
ここには繰り返し同じ内容の言葉が登場していました。「その時、あなたがたは私が主であることを知るようになる」(6:7)という事柄です。ここには主の民に対する裁きが繰り返し語られています。その裁きによって明らかになるのは、神が主なる方でいらっしゃるという事実であると言われるのです。
このエゼキエル書を読んで改めて知らされるのは、私たちが、神様の御目から御覧になって如何に汚れ、罪深い者であるかということです。罪深いというのは、神様から遠く離れているということです。神を神としてあがめ、礼拝し、賛美することを拒んでいるということです。私の実際の生き方が、神から遠く離れているということに他なりません。その遠さは、神に裁かれることによってしか主なる神を知り得ないほどだと言うのです。恐るべき事です。
神が神であることを拒むというのは、別のものを神としている、ということです。神ならぬもので私たちが神にしがちなものの代表といえば、例えばお金です。拝金というといかにも卑しい感じがしますが、しかし生活の本音からすると、あたかも主なる神よりも現実的な力を振るっているかのようです。何よりも私たちが本音のところで神よりも力あると信じ込んでしまっているのではないでしょうか。当然お金がなければ生活できないし、お金は大切です。しかしお金は私たちの生活や社会を成り立たせるための「道具」であって、神ではありません。だから、神の裁きの日にお金は最終的な力を持ちません。
「彼らは銀を通りに投げ捨て、金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、銀も金も彼らを救えず、飢えを鎮めることも、腹を満たすこともできない。それが過ちのつまずきの石だったからだ」(7:19)。
お金の正しい姿を見るのは、神を神としてあがめることから始まります。そして、神を神としてあがめていないところに私たちの汚れがある。私たちは、主の裁きの中、つまりキリストがかけられた十字架の裁きの下で、始めて主なる神こそまことの神でいらっしゃる事実を知ることになるのです。
エゼキエル書6~7;
ここには繰り返し同じ内容の言葉が登場していました。「その時、あなたがたは私が主であることを知るようになる」(6:7)という事柄です。ここには主の民に対する裁きが繰り返し語られています。その裁きによって明らかになるのは、神が主なる方でいらっしゃるという事実であると言われるのです。
このエゼキエル書を読んで改めて知らされるのは、私たちが、神様の御目から御覧になって如何に汚れ、罪深い者であるかということです。罪深いというのは、神様から遠く離れているということです。神を神としてあがめ、礼拝し、賛美することを拒んでいるということです。私の実際の生き方が、神から遠く離れているということに他なりません。その遠さは、神に裁かれることによってしか主なる神を知り得ないほどだと言うのです。恐るべき事です。
神が神であることを拒むというのは、別のものを神としている、ということです。神ならぬもので私たちが神にしがちなものの代表といえば、例えばお金です。拝金というといかにも卑しい感じがしますが、しかし生活の本音からすると、あたかも主なる神よりも現実的な力を振るっているかのようです。何よりも私たちが本音のところで神よりも力あると信じ込んでしまっているのではないでしょうか。当然お金がなければ生活できないし、お金は大切です。しかしお金は私たちの生活や社会を成り立たせるための「道具」であって、神ではありません。だから、神の裁きの日にお金は最終的な力を持ちません。
「彼らは銀を通りに投げ捨て、金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、銀も金も彼らを救えず、飢えを鎮めることも、腹を満たすこともできない。それが過ちのつまずきの石だったからだ」(7:19)。
お金の正しい姿を見るのは、神を神としてあがめることから始まります。そして、神を神としてあがめていないところに私たちの汚れがある。私たちは、主の裁きの中、つまりキリストがかけられた十字架の裁きの下で、始めて主なる神こそまことの神でいらっしゃる事実を知ることになるのです。