今日の通読箇所:ヨハネの黙示録20、ナホム書
ナホム書;
ナホムは、ニネベに向かって神の言葉を告げた預言者です。ニネベはヨナが訪れた場所、アッシリアの首都です。対象はヨナと同じですが、ナホムの場合は、ヨナのように語った結果どうなったのかということには言及されていません。ナホムが語ったメッセージそのものに関心が向けられているということであろうと思います。
「主は妬む神、報復する神。主は報復し、その憤りは激しい。主は対立する者に報復し、敵に向かって怒りを燃やす」(1:2)。
報復というのは、もちろん、イスラエルへの仕打ちに対する報復です。神はそのことについてアッシリアを裁く、と言います。注目すべきは、イスラエルの民以外の異邦の民や国に対しても、神は裁き主として及んでおられる、ということであると思います。
ナホムはニネベを「流血の町」(3:1)と呼びます。「屍の山、数え切れない死体。人々はその死体につまずき、倒れる」(3節)。「私はあなたに立ち向かうーー万軍の主の仰せ。私は、あなたの裾を顔の上までまくり、諸国民にあなたの裸を、もろもろの王国にあなたの恥をさらす」(5節)。流血を繰り返すニネベを、神は必ず裁くと告げるのです。
私は、この言葉を読んで、怖くなりました。神様の目から御覧になって、私たちの作ってきた世界はどう映っているのでしょうか。主は妬む神、報復する神だと言っていました。流された血について、神ご自身が報復すると言われます。それは、ちょうど、流されたアベルの血について、カインにその責任を問うたのと同じなのだと思います。私は、神様に隣人の血についての責任を問われることを真剣に考えて来なかったのだと気づかされました。私自身は、確かに、この手で直接誰かを殺したことはありません。しかし、それだけで済むのだろうかと考えないわけにはいかないのです。
レオナルド・デカプリオ主演のブラッド・ダイヤモンドという映画があります。アフリカ・シエラレオネの紛争地で見つかった特大のダイヤモンドの原石を巡る話ですが、今世界に出回っているダイヤモンドは、紛争にかかわっているものが多数存在するという事実がこの映画のテーマです。私たちが目にする小さなダイヤモンドも、もしかしたらそのために血を流した人がいるのかも知れません。問題は、当然、ダイヤだけの話ではない。私たちの生活を支える、何らかの、当たり前にしている事実の背景に血塗られた事実が潜んでいるのかも知れません。
主は、ニネベにも預言者を遣わしてこのように語りかけ、ご自身のもとへ、罪を悔い改めて帰ってくることを待っておられるのではないでしょうか。
ナホム書;
ナホムは、ニネベに向かって神の言葉を告げた預言者です。ニネベはヨナが訪れた場所、アッシリアの首都です。対象はヨナと同じですが、ナホムの場合は、ヨナのように語った結果どうなったのかということには言及されていません。ナホムが語ったメッセージそのものに関心が向けられているということであろうと思います。
「主は妬む神、報復する神。主は報復し、その憤りは激しい。主は対立する者に報復し、敵に向かって怒りを燃やす」(1:2)。
報復というのは、もちろん、イスラエルへの仕打ちに対する報復です。神はそのことについてアッシリアを裁く、と言います。注目すべきは、イスラエルの民以外の異邦の民や国に対しても、神は裁き主として及んでおられる、ということであると思います。
ナホムはニネベを「流血の町」(3:1)と呼びます。「屍の山、数え切れない死体。人々はその死体につまずき、倒れる」(3節)。「私はあなたに立ち向かうーー万軍の主の仰せ。私は、あなたの裾を顔の上までまくり、諸国民にあなたの裸を、もろもろの王国にあなたの恥をさらす」(5節)。流血を繰り返すニネベを、神は必ず裁くと告げるのです。
私は、この言葉を読んで、怖くなりました。神様の目から御覧になって、私たちの作ってきた世界はどう映っているのでしょうか。主は妬む神、報復する神だと言っていました。流された血について、神ご自身が報復すると言われます。それは、ちょうど、流されたアベルの血について、カインにその責任を問うたのと同じなのだと思います。私は、神様に隣人の血についての責任を問われることを真剣に考えて来なかったのだと気づかされました。私自身は、確かに、この手で直接誰かを殺したことはありません。しかし、それだけで済むのだろうかと考えないわけにはいかないのです。
レオナルド・デカプリオ主演のブラッド・ダイヤモンドという映画があります。アフリカ・シエラレオネの紛争地で見つかった特大のダイヤモンドの原石を巡る話ですが、今世界に出回っているダイヤモンドは、紛争にかかわっているものが多数存在するという事実がこの映画のテーマです。私たちが目にする小さなダイヤモンドも、もしかしたらそのために血を流した人がいるのかも知れません。問題は、当然、ダイヤだけの話ではない。私たちの生活を支える、何らかの、当たり前にしている事実の背景に血塗られた事実が潜んでいるのかも知れません。
主は、ニネベにも預言者を遣わしてこのように語りかけ、ご自身のもとへ、罪を悔い改めて帰ってくることを待っておられるのではないでしょうか。