今日の通読箇所:ヨハネの黙示録19、ミカ書7
ミカ書7;
「しかし、私は主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる」(7節)。
この言葉が「しかし」と始まっていることが大切だと思います。そして、「私は主を仰ぎ見る」と言ったとき、この「私」が強調された言い回しをしています。しかし、私は、主を仰ぎ見ます、と告白しています。
升も秤も不正に満ち、弱者を食い物にし、勝ち組になることが正しいとされる世界です。負けることは自己責任と言われ、世間に迷惑をかければいなくなるほうがましだと後ろ指をさす世界です。しかし、告白します。
「しかし、私は主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる。」
この告白には、覚悟があります。主に従い、他のものには従わないという決心を込めた告白です。この覚悟や決心を支えるのは、主の慈しみです。「あなたのような神がいるだろうか。ご自分の民である残りの者のために過ちを赦し、その背きの罪も見過ごされる方。いつまでも怒りを持ち続けず、むしろ慈しみを望まれる方。主は私たちを再び憐れみ、私たちの過ちを不問にされる。あなたは私たちの罪をことごとく海の深みに投げ込まれる」(18~19節)。私も、いやこの私こそ、神に赦して頂かなければ生き得ない罪人の頭です。そのような者を神が慈しみをもって赦してくださった。「あなたのような神がいるだろうか」、主のような慈しみの深い神が。だから、ただこのお方だけに従い、この神だけを仰ぎ見ると告白するのです。
預言者ミカは、私たちの社会が抱え込んでしまっている罪と不正義を鋭い言葉で指摘します。そうであるからこそ、神の慈しみ立ち帰ろうと激しい言葉で呼びかけます。神の慈しみの深さが、確かに私たちを救ってくださるからです。
ミカ書7;
「しかし、私は主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる」(7節)。
この言葉が「しかし」と始まっていることが大切だと思います。そして、「私は主を仰ぎ見る」と言ったとき、この「私」が強調された言い回しをしています。しかし、私は、主を仰ぎ見ます、と告白しています。
升も秤も不正に満ち、弱者を食い物にし、勝ち組になることが正しいとされる世界です。負けることは自己責任と言われ、世間に迷惑をかければいなくなるほうがましだと後ろ指をさす世界です。しかし、告白します。
「しかし、私は主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる。」
この告白には、覚悟があります。主に従い、他のものには従わないという決心を込めた告白です。この覚悟や決心を支えるのは、主の慈しみです。「あなたのような神がいるだろうか。ご自分の民である残りの者のために過ちを赦し、その背きの罪も見過ごされる方。いつまでも怒りを持ち続けず、むしろ慈しみを望まれる方。主は私たちを再び憐れみ、私たちの過ちを不問にされる。あなたは私たちの罪をことごとく海の深みに投げ込まれる」(18~19節)。私も、いやこの私こそ、神に赦して頂かなければ生き得ない罪人の頭です。そのような者を神が慈しみをもって赦してくださった。「あなたのような神がいるだろうか」、主のような慈しみの深い神が。だから、ただこのお方だけに従い、この神だけを仰ぎ見ると告白するのです。
預言者ミカは、私たちの社会が抱え込んでしまっている罪と不正義を鋭い言葉で指摘します。そうであるからこそ、神の慈しみ立ち帰ろうと激しい言葉で呼びかけます。神の慈しみの深さが、確かに私たちを救ってくださるからです。