2019年12月22日日曜日

2019年12月22日(ゼファニヤ書1〜2)

今日の通読箇所:ルカによる福音書1:26~56、ゼファニヤ書1~2

ゼファニヤ書1~2;
「私は地の面から、すべてのものを取り去るーー主の仰せ。
私は、人も獣も取り去り、空の鳥も海の魚も取り去るーー主の仰せ」(1:2~3)。
ノアの時代の洪水のときのような裁きの言葉であると思いました。すべてのものを取り去る、と主は言われます。「主に背を向け、主に尋ねず、主を求めようとしない者を絶ち滅ぼす」(6節)と言われます。神を神としてあがめ、礼拝せず、他のものを神とすることへ裁きを告げます。そこから生まれる人間社会の悪を糾弾する。それも、あのノアのときとよく似ていると感じます。
預言者ゼファニヤが活動したのは南王国ユダでヨシヤ王が統治していた時代です。ユダ王国の歴史の中では、最もはっきりと主に立ち帰った時代です。それでも、なお、主を蔑ろにする人々の罪は深く根付いてしまっていたということなのでしょうか。人間の厳しい現実を思わされます。
神ならぬものを神とするというのは、異教の神とか、何かの目に見える像とは限りません。そういうものもあるかも知れませんが、それと同じように、あるいはそれ以上に、私たちの生活習慣の中に根ざす神ならぬ神はたくさんあります。
「銀も金も救いにはならない。主の怒りの日に、全地は主の妬みの火で焼き尽くされる」(18節)と言われています。これは、私たちが銀や金を神の代わりにしているという指摘でもあろうと思います。しかし、そのようなもので主の怒りを免れることはできないと告げます。厳しい裁きの言葉です。
ところがこの裁きは、裁くための裁きではないと思います。「恥を知らぬ国民よ。集まれ、共に集まれ。もみ殻のように追い散らされ、吹き飛ばされないうちに。主の燃える怒りが来ないうちに。主の怒りの日が来ないうちに。主を求めよ。地の苦しむすべての者たち、主の法を行った者たちよ。義を求め、謙遜を求めよ。主の怒りの日に、あるいは、かくまってもらえるだろう」(2:1~3)。
主の怒りの日が来ないうちに、主を求めよ、と言います。謙遜に義を求め、自分の恥を知って悔い改めよと言うのです。神様は、私たちが滅びることではなく、神のもとに立ち返って生きることを望んでいてくださいます。
「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを、主イエスは教えてくださいました。私たちの切実な願いです。この祈りを共に心を合わせて献げるために、今日はクリスマスにお生まれになった方の前に、共に進み出ていきましょう。

2024年5月1日の聖句

5月の聖句: 私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。(1コリント6:12) 今日の聖句: 私があなたと共にいて救い出すーー主の仰せ。(エレミヤ30:11...