2019年12月22日日曜日

ローマの信徒への手紙第8章31から39節「誰も、神の愛からあなたを離し得ない」


 今日の聖書の御言葉は、私の最愛のものの一つです。読む度に、心が震えます。特に3839節です。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」ここでしているのは、私の話ではありません。私がどうあるかということではなく、私を愛するキリストの愛の確かさの話です。私の決意の揺るぎなさや、私の決心の強さの話ではありません。キリストの愛が確かであって、私たちを離すことがない。それを信頼しよう、ということです。
 第二次世界大戦時にドイツで生き、そして死んだ詩人ヨッヘン・クレッパーのクリスマスの詩、どれもすばらしい詩ですが、特に私が好きなクリスマスの詩は、このように始まっています。「やめなさい、あなたの罪と弱さの中で、あなたが何者かを見つめるのは。あなたの弁護のために来られた、御子に目を留めなさい。」キリストの愛が私たちをつかんでいてくださるから、私たちは自分がどんなに強いのか、あるいは惨めなのか、そのようなことにこだわる必要はないし、こだわってはならないのです。大切なことは、私たちのところに来てくださる救い主に目を注ぐことです。
 なぜなら、神が、私たちの味方でいてくださるから。神が私たちの味方。その証拠は、神が、その御子をさえ惜しまず死に引き渡されたことです。キリストの死、それは、キリストが飼い葉桶の中に生まれたことに、既に始まっているのです。クリスマスは、神が私たちの味方でいてくださることの証拠です。神が、私たちの味方なのです。秋に野球の国際大会がありました。普段のペナントレースではライバルとして戦っている者たちが味方になり、一つのチームになって輝かしい勝利を目指して戦います。この戦いは、一度勝つだけでは、まだ戦いの途上に過ぎません。予選リーグを勝ち抜き、決勝リーグでも勝利を収め、決勝での輝かしい勝利を目指します。聖書は言います。「私たちは、私たちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています」(37節)。神が私たちのために戦い抜いて、私たちは勝利を収める。聖書が言うのは、無論、野球の話ではありません。では「勝利」とは一体何のことなのか。それは、キリストの愛の勝利です。キリストによって示された神の愛から私を引き離すことはできない。クリスマスは、私たちを愛しぬくための神の愛の戦いの日なのです。
 ケン・ローチ監督の「家族を想うとき」という映画を観ました。リッキーというフランチャイズの宅配ドライバー、パートの訪問介護士の妻アビー、高校生の息子セブと12歳の娘ライザという四人家族が物語の中心です。リッキーの仕事は実入りが少なく、休みも取れず、心身共に疲弊していきます。家族を守り懸命に働きますが、働くほどに家族を顧みる時間を奪われ、何かにつけて職場から罰金をとられ、貧しくなります。それでも家族はリッキーの味方で居続けようとする。しかし、家族を守るための仕事によって時間も余裕も奪われ、ますます追い詰められていく…。そんな時に、私たちは味方を信頼して、その愛の中に帰ることができるのでしょうか?キリストは私たちの味方として、私たちが帰るのを待っていてくださいます。私たちを取り戻す戦いを戦っておられるのです。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...