2020年1月2日木曜日

2020年1月2日(マタイによる福音書4)

マタイによる福音書4;
洗礼を受けた主イエスは荒れ野へ行き、そこで試みを受けます。その後、洗礼者ヨハネが捕らえられた聞き、ガリラヤに退いていかれます。「そしてナザレを去って、ゼブルンとナフタリとの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった、とマタイは私たちに伝えています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤ、闇の中に住む民は、大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に、光が昇った。」
主イエスはガリラヤに住まわれた。それによって、その地の人々は光を見た。主イエスが来てくださったから、主がここにいてくださるから、ここが死の地、死の陰であっても、光が差しています。
そのガリラヤで、主は何をなさったのでしょうか。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。」主イエスは私たちの間を歩いて、福音によって私たちを癒やしてくださいます。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。」
主イエスの伝道と癒やしの業は、この地に生きる一人ひとりの人に寄り添うものであったのだということを思わされます。具体的なカファルナウムという町に住み、そこを中心として多くの人がイエスのもとに集まってきて、主イエスは一人ひとりを癒やしてくださいました。これは、あの荒れ野で受けた悪魔の誘惑の言葉と逆を行ったあり方ではないでしょうか。悪魔はもしも自分を拝めば国々の栄華のすべてを与えようと言います。主イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言ってこれを退けられました。国々の栄華を手に入れれば、圧倒的な経済力と効率のよい宣教を展開することもできるでしょう。しかし主はそれをよしとはなさらなかった。力をもって効率的に進めるのではなく、ただ主なる神だけをあがめ、一人と出会い、一人に手を置くことを選ばれました。
私たちは、主イエスが進んで行かれるところへ出て行き、主イエスがこのように愛される人を主のように愛します。誰もが、主イエス・キリストの光を求めているからです。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...