2020年1月3日金曜日

2020年1月3日(マタイによる福音書5:1〜20)

マタイによる福音書5:1~20;
「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」主イエスは、ご自分の弟子たちにそのように言われます。塩は塩味をつける唯一無二の存在です。人の前に輝く光は人々を照らします。そのように、主イエスの弟子は地の塩であり、世の光だと主は言われます。どのように塩であり光だと言っておられるのかといえば、主は「あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになる」のだと言われます。私たちはそう言われると怯んでしまいます。自分の立派な行いが地の塩、世の光としての役割を果たすなんて言われてしまうと、私はそういう者ではありませんと言いたくなるし、言わなければならないと思ってしまいます。
さらに、主イエスは17から20節の段落で、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言い、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とまで言われるのです。にわかには「アーメン」と言えない言葉です。
これらの言葉は、山上の説教で語られたものです。そして、山上の説教の冒頭は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちの者である」と言って始まっています。私は、ここが鍵なのではないかと思います。
「心の貧しい人々」と主イエスは言われました。ここで主が言われる貧しさとは、極度の貧しさ、自分の力で生きていくことができないほどの貧しさのことです。今道友信というカトリックの信仰に生きた哲学者は、現代ではふさわしい表現ではないとされるかもしれないと注釈しつつ、この言葉はその心が乞食である者は幸いだという意味だということを言いました。物乞いをしなければ生きられないほどの貧しさの中にあるならば(今道先生は戦中・戦後にそういう貧しさを実際に経験されたのでしょう)、選り好みせず、生きるために何でも感謝してもらいます。私たちは、神様の前に、そういう貧しさを知っているのでしょうか。いつの間にか満ち足りた気になり、神様に求める必要などないと思い込んではないでしょうか。そうやって神様に恵んで頂かなければ生きられないという自覚なしに自分の義を立てる、立派な行いに生きると考え始めると、どうしようもなくなります。神様の憐れみと恵み抜きに自分を考え始めると、行き止まりにしか行きようがありません。
ところが私たちは、今現に、ただ神の憐れみと恵みによってのみ生かされています。そうやってただ神の憐れみと恵みによって、神の乞食として生かされている私がなお生きている。だから、主にあって悲しみに生きる恵みを知り、へりくだる者の幸いをしり、義に飢え渇き、憐れみに生き、心清く、平和を造る者として、主にあわれた者であるからこそ義のために迫害される。それが私たちの新しい喜ぶべき生です。すべては、キリストの憐れみと恵みによって。私たちにあるのは、ただキリストの憐れみと恵みだけです。私たちの空の手を、主に向かって差し出しましょう。

2024年12月22日の聖句

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