2020年1月28日火曜日

2020年1月28日(マタイによる福音書22)

マタイに夜福音書22;
「祝宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。」それで、その僕たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めたので、祝宴は客でいっぱいになった。王が入ってきて客を見回すと、そこに礼服を着ていない者が一人いた。王は、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と言った。(8~12節)
「祝宴」というのは、この王の息子である王子の結婚の宴会のことです。招いておいた客は誰も出席しませんでした。それで、王は「四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい」と僕たちに命じたのです。考えてみれば、異常な命令です。私たちの誰が自分や自分の子どもの結婚式の客が少なくなってしまうからといって、通りを歩いている知らない人を披露宴に招くでしょうか。
しかし明らかに、これは旧約以来の神と民との関係を示しています。預言者たちを無視し、あるいは酷い目に遭わせて殺してきた民の罪を指摘しています。だから四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。そうやって、今や異邦人が天の国に招かれているのだ、と主イエスは言われます。
そこでの招きは「見かけた者は誰でも」という招きです。だから、僕が「見かけた人は善人も悪人も皆集め」ました。神様の招きは、善人か悪人かは関係がないのです。ただ一つ条件があります。礼服を着ることです。礼服を着てこなかった人にだけ、王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と問いました。どうしてなのでしょうか。礼服とは何のことなのでしょうか。ここでの「礼服」という言葉には、丁寧に「結婚の服」と「結婚」という言葉が添えられています。「宴会」という言葉にも、いちいち「結婚の宴」と「結婚」という言葉が添えられています。王が言っていることは、一般的なパーティーの礼儀の話ではなく、結婚には結婚にふさわしい装いがある、ということです。そしてこれは天の国の譬えなので、天の国は結婚の宴にふさわしい装いで臨むべきだ、と言っていることになります。
その天の国にふさわしい装いとは何かということが、15節以下で語られている。ここには主イエスの言葉尻を捕らえようとして、税金のことや復活のことについて、神様の思いを無視した表面的な言葉の奴隷になっている人が登場します。これらのことの中で大切な神様の思いというのは、37から39節で言われているとおり、神様を愛することと隣人を自分自身のように愛することです。愛の掟に、神様の御思いが込められている。これが、神様が私たちに求めておられる天の国の装いなのではないでしょうか。神を愛し、隣人を愛することです。しかしこの愛の衣装すらも、本当は私たちが自前で用意しているわけではなく、主イエス・キリストご自身が私たちのための愛の装いとなってくださる。私たちはキリストを着ます。私たちも、天の国の宴に招かれています。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...