2020年1月27日月曜日

2020年1月27日(マタイによる福音書21:23~46)

マタイによる福音書21:23~46;
主イエスのぶどう園と農夫のたとえ話。ある家の主人が造ったぶどう園には、搾り場も見張りのやぐらも備えられていました。ところが、収穫の時期に主人が僕を送っても、農夫たちはその僕たちを次々に袋叩きにし、石で打ち殺してしまいました。最後に主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、自分の息子を送ります。しかし、農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺して、その財産を手に入れよう」と言って、息子を殺してしまった。そういう話です。
主イエスは、明らかにこれから自分が歩んでいかれる道をしっかりと見据えた上で、この譬えを話しておられます。旧約の時代から神に遣わされてきた預言者たち。彼らは多くが殺されたり、ひどい目に遭わされたりしてきました。そして、最後に遣わされた神の子、イエスは、誰よりも酷い目に遭わされ、殺されました。この世界というぶどう園の主人である神の子として、主イエスは殺されました。この世界の農夫である私たちの手にかかって。
主イエスが神殿で教えておられたとき、祭司長たちや民の長老たちは言いました。「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」主イエスはこの問いに直接には答えておられません。それでは、主イエスの権威とは一体どこから来たのでしょうか。
それが、最初に見たたとえ話なのだと思います。主イエスは、神の子としての権威を持って教えておられた。しかしその権威は、力を振るって人を脅したり、酷い目に遭わせたりする権威ではなく、却って脅され、酷い目に遭わされ、殺されるところで発揮された権威です。神の子としてのキリストの権威は、ほかのどこでもなく十字架の上で顕されました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」
私たちは、キリストという石を捨ててしまった。神を捨ててしまった。しかし、その石は、不思議なことに親石になりました。この石に組み合わされて、建物が建てられていく。「これは主がなさったことで、私たちの目には不思議なこと。」神様は、私たちが殺した神の子を私たちのための救いの親石にしてくださったのです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...