2020年1月30日木曜日

2020年1月30日(マタイによる福音書23:23~39)

マタイによる福音書23:23~39;
昨日のところから、何度も主イエスは繰り返して「災いあれ」と言っておられます。この言葉は原文のギリシア語では「ウーアイ」という音です。訳すとすれば「災いあれ」とか「深い悲嘆」といった意味ですが、「ウーアイ」という音を聞いても分かるとおり、これはうめき声です。「ああ、律法学者やファリサイ派の人々よ!」主イエスは呻きながら呼びかけています。
なぜ、深い悲しみを持って呻き、呼びかけているのか。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前たちを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」主イエスの呻き、悲しみは、まさにめんどりが雛を自分の羽の下に集めてあらゆる災いから守るようなものです。「だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」キリストは何度も罪から立ち帰らせようとして私たちに呼びかけてきたが、私たちがそれを拒んできた。主はそう言われます。
神の裁きというと、天変地異とか病気とか、そういう何か超自然的な災いのようなものを考えてしまいます。しかし、神の裁きの中には私たちの欲望をそのまま放っておく、という裁きもあるのではないかと思います。止められることなく放っておかれては、満足することを知らない貪欲、下らないものを獲得しないといけないという焦燥感のような消費主義、自分よりも幸福なものを許すことのできない嫉妬のために、私たちは滅ぶしかありません。私たちが罪の中にいたままなのは、ウーアイと呻くべき不幸です。
しかし主イエスは、続けてこう言われます。「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。」この「主の名によって来られる方に、祝福があるように」というのは、エルサレム入城の時の人々の歓呼です。私たちの救いは、主イエスをお迎えすることにあります。私たちが、私たちの欲望に溺れるのを放ってはおかずに、ウーアイと呻きながら私たちをご自分の羽の下に集めてくださいます。主イエスが十字架に向かって行かれたのは、そのためです。私たちは、私たちのために嘆き、呻く方のその苦しみによって救われました。ただただキリストを見上げます。

2026年3月25日の聖句

主よ、立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。(詩編9:20) (イエスが弟子たちに語った言葉)「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」(マルコ9:31) 「人の子は人々の手に渡され、殺される。」 これが、今私たちの目に映っている状況ではない...