2020年1月7日火曜日

2020年1月7日(マタイによる福音書7)

マタイによる福音書7;
「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」
主イエスは、私たちが主の御言葉を聞き、そしてそれに従うことを求めておられます。聞くだけではなく、従うことを。
ボンヘッファーという牧師は、私たちがキリストの恵みを「安価な恵み」にしてしまっていないか、と問います。「安価な恵みとは、見切り品としての恵みのことであり、投げ売りされた赦し・慰め・聖礼典のことである。それはまた、教会の無尽蔵の宝庫のようなものであって、そこから恵みが浅薄な人々の手によって無思慮に、また見境もなく注ぎ堕されるのである。・・・この安価な恵みを肯定するものは、自分の罪の赦しをすでに手に入れている。・・・このような教会の中にこの世が見出すものは、教会の罪の安価な隠蔽であるが、教会はその罪を悔いることはないし、またそれから自由になるという願いは毛頭ない。それゆえに、安価な恵みは、生きた神の言葉の否認であり、神の言葉の受肉の否認である。」安価な恵みは、依然として旧態にとどまることができるものだ、とボンヘッファーは指摘します。依然として罪のもとにとどまることができるような恵み。それは教会にとっては揺るすべからざる宿敵だ、と訴えます。
それに対して「高価な恵み」というものがある。ボンヘッファーは言います。「高価な恵みーーそれは繰り替え探ね求められるべき福音であり、祈り求められるべき賜物であり、叩かれるべき戸である。それは服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。・・・それは、罪を罰するがゆえに高価であり、罪人を義とするがゆえに恵みである。・・・高価な恵みが恵みであるのは、何よりも先ず、神がみ子をわれわれの生命のために高価なものとして惜しみ給うことなく、われわれのために犠牲にし給うたからである。高価な恵みは神の受肉である。」高価な恵みは、私たちをキリストに対する服従へといざないます。私たちはキリストの言葉を聞き、それに服従して、新しくされることを拒みません。
キリストに服従する者は岩の上に家を建てた人に似ています。建てるのは大変です。しかし、その家はどんな嵐にもなぎ倒されることがない。どんな大雨もその家を破壊してしまうことはない。キリストの御言葉が、土台を支えているからです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...