2020年2月1日土曜日

2020年2月1日(マタイによる福音書24:29~51)

マタイによる福音書24:29~51;
「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。・・・だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。・・・だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」
主イエス・キリストが再び来てくださるその日がいつなのか、私たちには分かりません。しかし、私たちはその時を待っています。待ち望んで、今という時を生きています。
100年くらい前に、ドイツにブルームハルトという牧師がいました。この人は、いつも、馬車をすぐ走らせることができるように準備していたそうです。主イエスが来られたとき、すぐにそこに行けるように。ブルームハルト牧師は、主イエスを待ち望む信仰に生きた人でした。私たちは、今、主イエス様が来られるのを待っているのでしょうか。待つことが、私たちの生活に影響を及ぼしているのでしょうか。主が来られるときのためといって、いつでも部屋の掃除をしている人もあるそうです。主を待つ、ということは具体的な生活の仕方にも影響を与えます。
45節以降では、働き方への問いかけになっています。家の僕が、自分よりも目下の使用人たちと共にどう働くのか。「それが悪い僕で、主人は遅れると思い、仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もうそうなら、その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰ってきて、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」ここで問われているのは、共に生きる仲間への愛です。自分のするべきことに忠実であり、隣人への愛に生きる姿を見られる者は幸いです。小さな事柄への忠実さを、主イエスは私たちに求めておられるのではないでしょうか。
家令が忠実に働くとしたら、それは、主人への愛に生きているときです。主人を愛する僕にとっては、誠実に仕えるということは苦痛ではなく、喜びです。主人がいつ帰ってこられるのか分からない。しかも、帰りが遅くなり、もう帰ってこないのではないかと思う人まで出て来る。それでも喜んで待ちうるのは、この主人の愛を知っており、このお方が来てくださることが喜びだからです。主イエス様は、必ず来てくださいます。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と言われる方は、私たちを救うために、必ず私たちのところへ再び来てくださいます。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...