2020年2月7日金曜日

2020年2月7日(マタイによる福音書27:1〜31)

マタイによる福音書27:1~31;
イエスを裏切ったユダは後悔し、自殺してしまいました。悲しい出来事です。彼は「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言いました。ユダが受け取った銀貨30枚は、結局祭司長たちが「陶工の畑」を買い、見知らぬ人のための墓地にしました。祭司長たちはその金について「これは血の代価だ」と言い、畑は「血の畑」と呼ばれました。
ユダのこの出来事は、繰り返し「血」という言葉が出てきます。ユダの裏切りは、血の出来事でした。血についての後悔から絶望し、やがてユダは自ら命を絶ってしまいました。
その後主イエスが裁判にかけられたとき、人々はピラトにイエスを十字架につけろと狂ったように絶叫しました。ピラトはバラバ・イエスを十字架につけてメシア・イエスを釈放してはどうかと投げかけましたが、人々はイエスを十字架につけるべきだと拒みます。「ピラトは、『一体、どんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく『十字架につけろ』と叫び続けた。ピラトは手の付けようがなく、かえって騒動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。』民はこぞって答えた。『その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい。』」ここでも、やはり「血」が問題になっています。イエスの血の責任を、民は自分たちと自分たちの子孫に降りかかって構わないと叫びます。その血の責任は我々が取るから、早くその男を十字架につけろと叫びました。
ユダはイエスを裏切ったと男として、歴史上最もさげすまれた人であるのかもしれません。しかし、イエスの血を流してしまうことへの恐れを、他の誰よりも深く知っていたとも言えます。その血の責任に自分は絶えきれないと絶望したのです。イエスが十字架につけられるという事柄の重大さをほかの誰よりも知っていたのは、ユダなのかもしれません。
主イエスは、その裁判の間中、何も答えませんでした。「ピラトは、『聞こえないのか。あんなにお前に不利な証言をしているのに』と言った。しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。」一言の弁明もしない。ご自身は罪を犯していないのですから、潔白を主張しようと思えばいくらでもできたはずです。一言も、何もおっしゃらない主イエスは、まるで自ら進んで十字架に向かって行かれるようです。イエスの血の責任の重さに絶えきれずに自ら死を選んでしまったユダの後を追うようにして。イエス・キリストは、ユダの後を追って陰府に降って行かれる。ユダがたどる道をご自身の道として、同じ所へ降って行かれます。キリストは、私たちの絶望の奥底に降ってきてくださるのです。

2024年4月19日の聖句

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