ヘブライ人への手紙1;
「神は、かつて預言者たちを通して、折に触れ、さまざまなしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。神は、御子を万物の創造者と定め、また、御子を通して世界を造られました。」
神学の言葉で「啓示」という言葉があります。神様がご自分を私たちに自己紹介してくださっていること、それを啓示という言葉で言い表します。かつて、預言者たちを通して神は語りかけてくださった。預言者たちの言葉を通じて、神様が私たちにご自身を紹介してくださってきた、と言います。しかし今や、神は御子によって私たちに語りかけておられる、とこの手紙の著者は驚きながら私たちに訴えています。神様はご自分の御子によって、私たちに語りかけてこられました。ですから、私たちは神様の御子に一心に目を向けていれば、それで、神様の御心が分かるということになります。
この世界は、御子を通して神に造られたもの。神様の御子への信仰を持ってこの世界を見れば、世界の姿も変わって見えてくるということではないでしょうか。この世界の美しさは、私たちの心を打ちます。しかし、ときにこの世界は私たちに襲いかかってきます。詩編121に「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか」という言葉があります。ここに出て来る「山々」は、美しい自然の風景であって、その美しさを見ているとこれらを造った神様の素晴らしさを感じる、という意味ではありません。この山々は私たちに襲いかかってくる脅威です。更に読み進めれば「昼、太陽があなたを打つことはなく、夜、月があなたを打つこともない」と言っています。この太陽も月も、山々と同じ脅威です。詩編作者がこのような自然の脅威を恐れないで済むのは、「私の助けは主のもとから、天と地を造られた方のもとから」来ると信じているからです。その確信は、神の御子を通して世界を見つめるときに確かにされます。
御子こそ、私たちと世界とをつなぐ架け橋です。この世界の脅威も、あるいは美しさだって、御子にあってこれを見つめ直すと、その意味が変わるのではないでしょうか。この神様の御子こそ、あらゆる天使にまさる方、礼拝されるべき方です。私たちは、この主の日に、このお方の前に進み出て行きます。
「神は、かつて預言者たちを通して、折に触れ、さまざまなしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。神は、御子を万物の創造者と定め、また、御子を通して世界を造られました。」
神学の言葉で「啓示」という言葉があります。神様がご自分を私たちに自己紹介してくださっていること、それを啓示という言葉で言い表します。かつて、預言者たちを通して神は語りかけてくださった。預言者たちの言葉を通じて、神様が私たちにご自身を紹介してくださってきた、と言います。しかし今や、神は御子によって私たちに語りかけておられる、とこの手紙の著者は驚きながら私たちに訴えています。神様はご自分の御子によって、私たちに語りかけてこられました。ですから、私たちは神様の御子に一心に目を向けていれば、それで、神様の御心が分かるということになります。
この世界は、御子を通して神に造られたもの。神様の御子への信仰を持ってこの世界を見れば、世界の姿も変わって見えてくるということではないでしょうか。この世界の美しさは、私たちの心を打ちます。しかし、ときにこの世界は私たちに襲いかかってきます。詩編121に「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか」という言葉があります。ここに出て来る「山々」は、美しい自然の風景であって、その美しさを見ているとこれらを造った神様の素晴らしさを感じる、という意味ではありません。この山々は私たちに襲いかかってくる脅威です。更に読み進めれば「昼、太陽があなたを打つことはなく、夜、月があなたを打つこともない」と言っています。この太陽も月も、山々と同じ脅威です。詩編作者がこのような自然の脅威を恐れないで済むのは、「私の助けは主のもとから、天と地を造られた方のもとから」来ると信じているからです。その確信は、神の御子を通して世界を見つめるときに確かにされます。
御子こそ、私たちと世界とをつなぐ架け橋です。この世界の脅威も、あるいは美しさだって、御子にあってこれを見つめ直すと、その意味が変わるのではないでしょうか。この神様の御子こそ、あらゆる天使にまさる方、礼拝されるべき方です。私たちは、この主の日に、このお方の前に進み出て行きます。