2020年4月10日金曜日

2020年4月10日(マルコによる福音書15)

マルコによる福音書15
「そこで、ピラトは改めて、『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』と言った。群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』ピラトは、『一体、どんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」
この当時のユダヤはローマに支配されていたので、罪人を死刑にする権限がありませんでした。そこで民の祭司長や長老、律法学者らはイエスをローマの総督ピラトの裁判にかけました。しかし、ピラトにはイエスを死刑にする理由を見つけることができませんでした。私は、そのことを知ったとき、どうして使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ」と言っているのか、不思議になりました。ピラトよりもむしろ群衆の責任が重いのではないか、と思ったからです。
イエスを十字架につける理由を見つけられなかったピラトがその判決を下したのは、「群衆を満足させようと思って」のことだったと聖書は言います。ピラトが群衆に「一体、どんな悪事を働いたというのか」と問うても狂ったように「十字架につけろ」としか叫ばない群衆が恐ろしかったのでしょう。そして、一人の政治家として、この群衆の熱狂を満足させればこれからの統治が楽になると踏んだのでしょう。ピラトはイエスを十字架につけることにして、鞭打ってから引き渡しました。
ピラトの措置は、今の言葉で言えばポピュリズムと言えるのでしょうか。彼の判断の基準は正しいか否かではなく、大衆に受けるか否か、もっと言えば自分のポジションを守る上でプラスになるかマイナスになるかです。そのために「みんなが言って言えること」にお墨付きを与えました。キリスト者が物事を「みんなが言っていること」だから、という理由で判断しない理由はここにあります。私たちが言ったりしたりしていることが、自分がすっきりするためだったり、自分を守るためだけだったり、みんなの中に埋没することで安心したいからだったり・・・ということはないでしょうか?
主イエスは、ポンテオ・ピラトのもとで、みんなに十字架につけられました。ピラトが代表する私たち人間の無責任がイエスを十字架につけました。今日は、主の御受難を覚える聖なる金曜日です。十字架の上におられる方、私たちがよってたかって十字架につけた方を、見上げましょう。私たちの救いはここにあります。私たちの無責任な罪を負ってくださった方が、私たちを救ってくださいます。

2024年4月24日の聖句

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