2020年4月12日日曜日

2020年4月12日(マルコによる福音書16)

マルコによる福音書16
「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
マルコが伝えている復活の朝の墓での出来事は、他の福音書とはかなり違っているようです。マタイが伝えるところによると、マグダラのマリアともう一人のマリアは天使からキリスト復活の知らせを聞き、畏れながらも喜んで、すぐに弟子たちのところへ知らせに行きました。その行く手にイエスが立っておられました。ルカではマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして他の女たちが墓に行き、輝く衣を着た二人の人と出会い、復活の知らせを聞きます。彼女たちは使徒たちに知らせましたが、彼らはその話をまるで馬鹿げたことだと思って取り合いませんでした。ヨハネが伝えるところでは、墓に行ったマグダラのマリアは石が取りのけてあるのを見てすぐにペトロのところへ行き、ペトロともう一人が殻の墓を見ましたが、痛いがないのを不思議がって家に帰ります。その後もマリアは一人ではかに残り、そこでイエスと会う。
このように見ていくと、四人の福音書記者の復活の朝の出来事はそれぞれ個性的です。クリスマスの伝え方が個性的であるのと似ています。それぞれの伝えようとする要点に個性があったのでしょう。
マルコは、他の誰よりも「恐れ」に注目します。彼女たちは復活の知らせが恐ろしかった。イエスの遺体があるはずの墓場で、それとは逆の知らせ、イエスの遺体がなくなり、しかもイエスは復活したという常識外れのことが起こったことが怖かったのです。弟子たちにそのことを報告できないほどに。
改めて、この「恐ろしさ」という感覚を忘れてはならないと思わされます。私たちは神やキリストを恐ろしく思わず、この世の権力や常識や人の目を恐ろしく思います。自分の考えの範囲内で事を納め、予定調和を心地よく感じます。しかし、神様の御業は私たちにとっては想定外です。想定外の神の介入に直面すると、恐ろしくなるしかありません。恐ろしいというのは、予想も付かない神様に直面したということに他ならないのです。
この恐ろしい出来語こそ、私たちのための福音の出来事だと聖書は言います。「十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。」私たちに想定可能なのは、お納めした場所、墓の中にイエスを見出すということまでです。しかし、神様はその想定を超えています。そして、私たちからしたら恐ろしいほどに想定外だからこそ、私たちを死から救うことがおできになるのです。

2025年1月15日の聖句

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