2020年4月1日水曜日

2020年4月1日(マルコによる福音書9:30〜50)

マルコによる福音書9:30~50;
主が再びご自身の十字架と復活とを弟子たちに告げました。それを聞いて、「弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」といいます。ところが、それからすぐに彼らが道々話していたのは、「誰がいちばん偉いか」ということだった。それで、主イエスは彼らにおっしゃいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
この言葉は、具体的な意味を持っています。先ず、主は「一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せて言われた。『私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである』」。子どもの「ような」者ではありません。具体的な、一人の子どもです。主はこの子を抱き寄せておっしゃいました。一人の子どもを主のために受け入れるならば、それは主を受け入れることであり、主を受け入れる者は主イエスを遣わされた神を受け入れる者である、と言います。だから、私たちの教会も子どもを真ん中において礼拝をし、あるいはファミリーサンデーの礼拝では子どもに合わせた礼拝を献げています。主が愛する子どもを、私たちも愛するために。すべての人の後になり、すべての人に仕えるということの具体的な一つの意味です。
更に、「私たちに従わない者」にも主の目は向きます。弟子たちは主の御名を使って悪霊を追い出しながら自分たちに従おうとしない者をやめさせようとしました。しかし、主はその必要はないと言います。彼らは主の御名を使っているのなら、主の悪口は言えないだろう、あなたがたにも、キリストの弟子だという理由で水のいっぱいもくれるかも知れない。キリストのゆえに水一杯くれる人は、必ずその報いを受ける。
これら二つの話の共通点は、主のゆえに、ということです。主の御名のゆえに子どもを受け入れる幸い。主に属する者だからと言うことでの一杯の水をくれる者への神からの報い。キリストのゆえに、私たちには互いを受け入れ、仕え合い、共に生きる道が開かれていると言います。弟子たちの最初の言い合いは、競争社会の典型です。誰がいちばん偉いのか?偉くない者は偉い者に仕え、先の者は後ろの者を思いやりません。しかし、主イエスはご自身の御名のゆえにそれとは違う生き方へと私たちを招いておられます。
最後の話は「私を信じるこれらの小さな者の一人でもつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」という言葉。小さな一人の存在への主の情熱がそこにあります。私たちは互いに平和に過ごすために召されました。激烈な競争社会にあって、キリストの造る神の国を生きるために。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...