2020年4月7日火曜日

2020年4月7日(マルコによる福音書12:18〜40)

マルコによる福音書12:18~40
サドカイ派の人々は復活はないと言っていました。イエスをやり込めてやろうとしてやってきて、尋ねました。ある人に妻がいたが、死んでしまった。律法の規定に従って弟が彼女を迎え入れた。しかしその弟も死に、三男が彼女をめとったが彼も死に・・・と、七人の兄弟と彼女は結婚し、誰とも子どもを残さなかった。復活の日が訪れたとき、彼女は一体誰の妻になるのか。
机上の空論の典型例という感じがしますが、これならイエスにも答えようがないだろうと思っていたのです。ところが主イエスは、根本的に思い違いをしているのだと指摘しました。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている。」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。主イエスはそう言われます。それが根本だ、そのことが分かっていない、ということです。モーセが神様と出会ったとき、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、すでに死んでいました。しかし神様は彼らの名前を告げて、私は彼らの神だ、とおっしゃった。それは、彼らが神との関わりの中で生きた者となっているということなのでしょう。わたしたちの命は必ず終わりを迎えます。わたしたちを記憶してくれる人も、やがて誰もいなくなります。あるいはサドカイ派が指摘したように法や社会の枠組みなどは、死を前にしたら何の助けにもなりません。だからと言って復活がないわけではない。わたしたちの死を超えた望みは、ただ神様にだけあります。神様が「アブラハム、イサク、ヤコブ」と名前を呼んでくださるのと同じように、わたしたちの名前をも呼んでくださいます。そして、イエスを復活させられた神は、そのイエスの手によってやがてわたしたちを眠りから起こしてくださることでしょう。
受難週を歩むわたしたちは、やがてイースターの朝を迎えます。死を超えた望み、それが神がわたしたちにくださった信仰の望みです。望みは、拓かれます。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...